「世界巡航」
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時事新報に掲載された「世界巡航」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
英國の海軍は申すに及ばず歐洲大陸のゥ國が彼の國力平均の爲めに陸軍擴張の費用莫大なるにも拘はらず猶ほ海軍に心を用ひ力を盡して互に怠らざるは何故なるや各國には所領の殖民地多きが故に海軍を以て之れを警邏するの要用あるは素よりなれども不時の事變を慮るよりも寧ろ平生絶えず國威を發揚し通商貿易を誘導保護するこそ海軍の本色と云はざる可らず均しく是れ軍備にても陸軍と海軍とは大に其趣を殊にし一は萬一の場合に備へ一は併せて平生の用をなさしむるものなればゥ外國が海軍に鋭意なるも自から軍事的以外の必要あるが爲めなるべし然り而して我國に海軍なきや久し必竟多年鎖國を國是としたるに由ることなれども既に國を開いて世界に通じ又隨て海軍の設けある上は他と共に運動を角逐して其本色を盡さゞる可らず人或は謂へらく日本は四面環海の國柄なれば國防を海軍に托せざる可らずとて專ら國防戰備の要のみを説く者あれども是れは海軍と陸軍とを混同一視したる謬見にして海軍には其戦時國防の外に平生更に十代の要務あるを忘れたるものと云はざるを得ず左れば我輩は海軍をして我國光を發揚せしめ又我が通商を輔護せしめんが爲め軍艦派遣の事を論じたるもの屡々なりしが鄙見猶ほ未だ採用せられずして先年C輝艦の歐洲を巡航したる以來昨秋比叡金剛の二艦が土耳古の遭難者を護送して彼地に赴きたるの例あるのみ其他は兵學校生徒が航海術の實地練習として南洋ゥ島に航したるに過ぎず西洋ゥ國にては東海に南〓に軍艦の往來頗る頻繁にして殆ど一日も休息なきに引換へ獨り我國の軍艦のみ沿岸に蟄伏して爲す所なきは誠に遺憾の限りならずや若しも此儘に因循して看す看す永く其任務を空ふするに於ては我輩は實に日本海軍の效用甚だ薄きを歎すると共に一歩を進めて何故に海軍の設備の爲めに莫大の費用を投じたるやを怪しまざるを得ず彼の軍港を設け鎭守府を置き之と共に壯大なる倉庫營舍を建築する等至らざるに非ずと雖も海軍の本色とも謂ふべき海外巡航の大任を忽せにするに至ては我輩未だ其事の當を見ざるなり顧ふに我國は軍艦の數も乏しく以て世界に誇るに足らずと雖も實際を知らざる者の得て皮相に流れ易きは人事の常にして例へば偶々日本より一軍艦の製造を英國邊に注文することあれば外人は之を聞傳へて直ちに海軍の進歩を説く者さへなきに非ず若しも此輩をして我軍艦が世界を巡航するの實際を目撃せしめたらば其これに對する感情は果して如何計りぞや日本海軍の侮る可らざるを嘖々するは必然なれども之に反し軍艦あれども曾て之を示さゞるときは我國には海軍なきものと視倣され爲めに外國に對して軍備の値を半減すべきは今の世間の實際に徴して明白なる可し豈啻に海軍の威光を空ふするのみならんや是れぞ取りも直さず日本國の聲名を空ふするものにして即ち海軍が其至大要務なる國光發揚の旨意に背くものと云ふべし開國以來殆んど半世紀、今に至るまで外人の中には日本國あるを知らざる者多く其これを知る者と雖も往々支那の屬嶋を以て目せんとす凡そ火野の己れを知ると知らざるとは齒牙に掛ると掛けざるとの相違を來たすものにして俗に云ふ蔭辨慶は特に國交上に不得策の第一なり日本は恰も此弊に中るものなれば事に觸れ物に當る毎に不如意何如の事のみにして此點に就ては讀者も定めて時事に感する所のもの多少ならん歟蓋し國聲を發表して他の尊敬を繋ぐの要用は今更云ふまでもなく而して其實手段の少なからざる中に就て軍艦を派遣して世界を巡航せしむるが如きは最も有力にして前記の如く西洋ゥ國にても相爭ふて務る所なれば我輩は國の爲め此擧の一日も速ならんことを祈り窃に隔靴掻痒を憾むものなり (未完)