「世界巡航(昨日の續)」

last updated: 2021-12-25

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時事新報に掲載された「世界巡航(昨日の續)」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

前號には主として國光を發揚し世界に我日本國あるを知らしめ而して其文明の一國たるに相違なきを信ぜしむるの要用を述べたれども是れは暗々裡に外人の尊敬心を喚起すべき無形の事にして別に有形の實益の更に之れより大なるものありと云ふは夫の通商貿易を誘導保護するの一事なり今日歐洲の諸國にては所領の殖民地多きが故に之を警邏せんが爲めに常に遠く軍艦を派遣せざる可らすとは皆人の認むる所なれば匆卒に之を聞く者は恰も殖民地は軍艦を呼ぶものゝ如く思ふことなれども其初め此等の殖民地は如何にして占領せられたる歟を吟味すれば軍艦を以て遠洋を巡航したるの力與りて其多きに居るものと云はざるを得ず日本に殖民地なければ軍艦を派遣するにも及ばずと云ふ者あらば聊か其愚を笑はざらん且つ夫れ毎度申す如く貿易を進捗せしむるの第一着手は航海を盛にして海外の事情を探知せしめ往來の便を易くして行先と本國と内外相應援するの道を開くに在ることなれども我國人は未だ此の觀易き道理を觀ること能はず通商貿易は遲々として〓はず外に得る所の利潤なければ内の疲弊は逐年ますます甚だしく立國の前途憂慮に堪へざるは正に今日の實況なり必竟その務むべきを務めざるの結果にして現に諸外國にては船艦の巡航によりて今は嚴然たる殖民地を開き内外應援の便利はますます便利にして貿易の進歩もますます進歩せんとす務むると務めざると斯くまでに相違するの實例を目撃したらば苟も國を世界に立てゝ富強を目的とする者が漫に姑息に流れて人後に落つるを甘んずべけんや左れば我輩は此等の急要に應せんが爲め航海業を保護奬勵すべしとは豫て切望する所なれども爰に海軍は其本來に於て航海業の率先をなし通商貿易を保護するの任務を帶ぶるものなれば時勢の要用此の如きの今日に際し特に奮ふて世界巡航の途に上り彼の兵勢地理人情風俗を視察するは勿論有志の商人に同航を許して詳に貿易上の利害を研究せしめ諸外國が實踐したるの筆法に倣ふて大に盡す所あらば漸次海外に對する國人の運動を誘掖して後進の日本國も亦先進と駢立せんこと未だ敢て其望なきには非ざるべし之に反して若しも現在の儘に抛棄せんか外國の軍艦のみ常に我港灣に出沒して日本軍艦の絶えて彼地に見えざると均しく通商貿易の利も亦たゞ彼の一方に偏し内地は逐年疲弊して不景氣の歎は變じて怨嗟の聲となり遂に亡國の恨を釀すに至らんも亦圖る可らず貿易的に海軍を擴張するの時機は今日を措いて夫れ將た何れの時をか俟たんや國の命脈は永きに似て永からず機會空しく去て復た回復す可らざるに至るときは是れ既に衰亡の象成れるなり讀者は方今の國勢を見て如何に觀察を下さんとするや

國光を發揚するなり通商貿易を誘導保護するなり何れも國務の急要なれば我輩は軍艦をして世界を巡航せしむるに彼の英國の週行艦隊の如きものを組織せんことは素より希望する所なれども今や財政意の如くならず一時に巨額を投するは事情の許さゞる所なる可ければ是非に及ばず兔も角も軍艦一艘の派遣は敢て之を當路に要求せざるを得ず我輩試に其入費を聞くに世界の要港を巡航するには少なくも日數一年半を費す可ければ其間の經費は凡そ三十萬圓を要すべし然りと雖も軍艦は本國に在泊するも猶ほ十五萬圓を要すべければ世界巡航の爲め新に增給する所は十五萬圓前後に過ぎず唯この十五萬圓を捨てゝ全世界を巡航することを得ば損得の係る所は世事未熟の小學生も亦よく之を知るに足る可し固より右の計算は非常の節儉を加へたるものなれば撰に當る軍艦の將卒は艱難の程さこそと察せらるゝ所なれとも我軍人の忠勇至誠なる必すや滿身の忍耐を盡して使命を全ふすべきは我輩の堅く信して疑はざる所なれば今度の國會に於て此經費の支出を可決することを得ば則ち萬事全かるべし國會議員は斯國經綸の大任を荷ふ者なり國務の急要の爲めに僅々十五萬圓を吝むものに非さるべければ幸に當路者にして軍艦派遣の議を呈出せば宜しく全會一致して可決すべし若し此案の呈出なくんば議員自から建議して其實行を忘るゝこと勿れ語を寄す帝國議會の諸諺内治の困難を見るの心を持って外交の遺憾を見よ民力の疲弊を察するの心を以て貿易の振はざるを察せよ而して海軍と陸軍と混同一視することなくんば議員が國家に盡すの功績は決して尠小ならざるべし (畢)