「生絲商の高運を祈る」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「生絲商の高運を祈る」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

生絲商の高運を祈る

横濱に在りて生絲貿易に從事する者に取りては荷主より成る可く低價に絲荷を運ばしめて外商へ賣込むこそ利益の多きものなれば荷主が高價を主張すれば其これを主張する所以の原因を探りて之を制せんと欲するも自然の道理にして或は之を賣込問屋の前貸に歸するものあり本年四月二十五日の時事新報に「繭の價の割高なる理由」と題して其説の要旨を披露したり曰く「元來横濱の生絲賣込問屋に於て生絲貿易の媒介を爲し利する所は表向き賣込個數に應じて荷主より取る所の口錢にあることなるも尚ほ此外に利息の餘分を取る利益あり即ち地方荷主は絲荷の廻送に續て後の送荷を用意すべきなれど得て資本の缺乏を告ぐるものなれば大抵必ず荷爲替を組み問屋より立替金を受取りて業務運轉の資本に供せざるを得ず問屋が此立替金に對して收むる利息は割高のものなれば低利の金を借りて荷主の方へ差向け利息の差を收入し得べし此利益中々なからざる所より問屋は多く荷主に金を貸すこと常なり然るに絲値の變動ある毎に荷主の失敗を來す者多く其都度問屋の立替金は返辨し得ず其儘ならば荷主潰れて其立替金を取返へす望みもなき所より問屋は更に金を貸し

て他日回復の時機を待ち以て全く其貸金を取戻さんとす此貸越次第に積れば問屋は次第に貸金を捨つるの惜しさも增して又更に貸越を爲すべくし今日の實際に於て横濱の問屋と地方荷主との關係右の如きもの隨分少からず是に於てか荷主は成るべく多く繭を買入れて成るべく多く絲荷を横濱へ廻送せんことを勉む何となれば斯くしたるとき若し絲値低落して損失を招けば唯問屋よりの借金の額を増すのみ既に眞實の己れの資産は無きことなれば均しく力の及ばざる借金は多くも少くも苦痛の點は格別に異なる所なきに若し又絲況隆盛を來したるときは大利を博して衰運を挽回することも爲し得べし損は貸の損に非ずして利益を得るの望みもありとすれば多く絲荷を送らんとするも無理ならぬこと、多く絲荷を送らんとせば多く繭の買入れを爲さんとし結局繭の價格を割合に高からしむるに至るも自然の勢ひなり」云々と是れ繭買入れの價割高にして其結果は生絲の原價を高からしめ隨て賣込に困難を感ずるに至るべしと云ふの意なり而して此説は其後一般賣込業者の是認する所となりしものならん去る五月初旬横濱の蠶絲賣込業組合より各地荷主へ向けて「當地賣込問屋に於て兩三年來荷主諸君へ對し製絲資金の前貸致したること往々有之殆ど一般の風を爲したる事情に相成居候處右者今日迄の經驗に依れば却て資金の融通を爲したる爲め製絲原量の騰貴を招く等の場合も相見え更に雙方の間利益と認むべきもの無之且本年の如きは實に金融逼迫の際に付到底前以て資金を御融通致すことは力の及ばざる所に有之候趣仲間一同の意見に候間爾來は是非共從前の如く貴方に於て御工風相成樣被成下度」云々と述べたる通知書を發送したりと云ふ蓋し賣込問屋が無資力の製絲家に續々貸越しを爲さば其製絲家をして濫に送荷の多きを願はしめ不注意に繭の買入れを爲さしむるに至るべしとのことは如何にも道理なきに非ず又今日の事實に於ても其弊を見ることなる可しと雖も左ればとて今日俄に此弊あるを見て忽ち荷主に對して金融の道を絶たんとするが如きは所謂角を矯めて牛を殺すの譬へに洩れずして害の却て甚しきものなきを保す可らず抑も通貨流通の途にして年來の習慣を爲せるものは其習慣終に經濟社會の常態となることなるに俄に人意の變態を起して其流通の道を壅塞する樣のことあらば由て生ずる所の災害は必ず大ならざるを得ず從來地方の製絲家が製絲に資本を卸すときは之を中央の京濱に來るの慣行にして毎年恰も定式の如くなりしものを一朝にして變動せしむるに於ては地方の製絲家は何等の手段に由て資金を得べきや四方八方に周旋する中に其地の金利は俄に騰貴して隨て製絲の價も亦高價のものと爲らざるを得ず品物の原價高ければ賣込問屋は外商に對して賣買の困難を成す可し且又地方の荷主製絲家とて資産皆無にして年々歳々問屋に増借する者のみにもなかる可きに其一部分に對して疑懼を抱くが爲めに全體に向て俄に金融の道を杜絶するとは策の得たるものに非ざるが如し今聞く所に據れば荷主中にて貸越を謝絶されたる者は人情として最早や問屋に縁を結ぶの要用なきを悟るのみか斯る無情なる相手に荷送りして從前の貸越を差引せられんことを恐れ新に他の問屋と取引を開かんとするの内情あるに付ては前の問屋はいよいよ貸越金取戻の道を失ひ尚ほ其上にも雙方間に面白からざる感情を生して都ての取引上に圓滑を缺くよりして問屋に於ても斯くては叶はずとや思ひけん竊に拔驅けの前貸を行ふ向きもありて融通謝絶の内規も今は殆んど無效に屬したりと云ふ商賣取引法の正面より論すれば因循なるに似たれども一時止むを得ざる處分なりと云はざるを得ず畢竟去年の絲價は製絲の時節に高くして賣込の時に下落を催ほし荷主も問屋も圖らざる禍を蒙りしことにて云はゞ商人の罪にあらず商勢の然らしむる所なれば此處は雙方共に忍耐し勘辨して互に破裂を防ぎ今年の好商況に由て愁眉を開き既往の苦情をも一夢に附し去らんこと吾輩の切望する所なり