「富豪の攝生は今日にあり」
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時事新報に掲載された「富豪の攝生は今日にあり」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
富豪の攝生は今日にあり
六日の菖蒲十日の菊とは人事の手後れを喩へたるものなり蓋し目前に迷ふて將來を戒めざるは其智見の足らざるに由るか抑も亦人情の弱點なるか人生の行路を見るに時を誤り機に後れて悔を取るものほど種類多きはなし例へば養生の事にても少年のときは血氣盛にして唯意の赴く所に任せ飮食歸臥さらに頓着なけれども漸く年老いて壽命の長短を案ずる頃に至れば始めて前非を後悔して只管養生に心懸くるは其常なり少年にして身の攝養に注意する者稀なると均しく老人にして衞生に關心せざる者も亦稀なれども是れは兩樣ともに非たるを免れず人身の強弱は一日の故に非ざれば老後の健全は少年の初めにこそあるべき筈なるに老體に至り俄に養生に氣付きたりとて過ぎし少年の時の不養生は如何にして能く之を回復すべけんや誠に明白なる次第なれども世の實際は則ち然ること能はずして養生の手後れを恨む者此々みな是れなり又かの造林藝種する者を見るに俗に年寄仕事と稱せらるゝ程ありて少年の之に從事する者は至て乏しく多くは老人ならざるはなし若しも少年の時より植付け置きたらんには其老年に至りて例の栽培に心懸くる頃は既に既に拱手の大木となりて所得も定めて多かるべきに老先きの短き晩年より漸く着手することゝなるが故に木の未だ榮えざるに身は先づ死して其目的を實にすること能はず此等は草木培養の手後れとも申すべき歟更に適切に之を云へば廢藩置縣の砌り士族に祿券を與へ之を以て活計自立の基本となさしめたるに滔々たる士族輩は此祿券を如何にせしや今年一枚を賣り明年二枚を賣り年一年より減少して未だ幾ならざるに悉く之を蕩盡しサテ賣るべきものも無くなりて爰に始めて走路を求め、求めて得ざる者は車夫となり人足となりて世に憐むべき慘境に陷ゐりたるに非ずや是れも初めより基金を基金として堅く守り而して其傍に車夫にても人足にても糊口の工風をなせしならば其金はますます増大して今日の困窮を見ざるのみか餘樂を子孫に胎すことを得たる可きに唯祿券のあるに任せて日一日と空しく送り曾て後來の爲めに警戒する所なかりしは弓矢の恥とは申さずとも其身の不覺は天下に對して又申譯なきことゝ云ふべし即ち士族が糊口の手後れにして人間萬事仔細に數へ來れば唯手後れと否らざるとによりて吉凶禍福を分つもの最も多きに居るが如し蓋し此事たるや親易くして行ひ易からず其言淺きに似て實は處世に缺け可らざるの要訣なり至大の理は至近の事を離れずと云ふ、心すべき事共なり
然り而して我輩が日頃世の富豪家に勸告したる攝生法即ち貧富間の疎情を和せんが爲め富豪が常に能く心を用ひて或は數理の外に堪へ難く思ふ處にも忍んで寛大の意を示す可しとの一事も亦前記の例證と其趣を同ふせざる可らず富豪の心には今の社會人心の和平なるに慣れ又法律の周到なるを待み唯蓄積の一方に偏して他に顧る所なく以て家を保ち身を安くす可しと思ふことならん目下の實際に於ては如何にも妨げなきが如くなれども其實は彼の少年が血氣に任せて暴飮暴食するものに等しく後日の成行こそ掛念なれ今後數年を經過する其間には釀しに釀したる社會の貧毒に破裂を促すの機會ある可きは勢の免かれざる所なり扨その時に至り俄に周章狼狽して攝生保身の道を講ずると雖も時機既に晩くして復た奈何ともす可らざること猶ほ老人が養生の手後れを憾むに均しく死に垂んとするの病中驚て坐起するに當り暗風雨を吹いて寒窓に入るを喞つの外なかるべし開國の今日外に對して國家の重きを成す可き富豪の爲めに計り公にも私にも策の得たるものに非ざるのみか單に錢の損得より論するも老病の醫藥に手を盡して效驗の薄きを少壯の時節に攝生すると費用の輕重は多言を俟たずして明白なる可し左れば天下の富豪は家の新舊に論なく其居家處世の筆法を改め冥々の間に人心を籠絡して以て家運長久の工風なかる可らず我輩は獨り其家の私の爲めにするのみに非ず國家の富豪として之を重んじ國家生存の爲めに大に恃む所のものあるが故に其否運の未だ至らざるに豫防せんと欲する者なり