「内閣の方針」
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時事新報に掲載された「内閣の方針」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
内閣の方針
此頃世間の風説に據れば松方内閣の政略は内治を先にし外交を後にするの方針にて即ち山縣前内閣の着手したる地方自治の實を擧ぐることを努め專ら意を此一方に注きて外に對する條約改正の談判などは暫く中止するの見込みなりと云へり推測の言に過ぎざれども稍や政海の實情を穿ちたるものゝ如し是より先き山縣總理の辭職して松方伯が其後を襲んとするや條約改正中止の條件を提出して内閣の承諾を要めたりとの説あり其成行の如何は知らざれども前後の事情より見れば實際に斯る要求もありたるものと推定せざるを得ず抑も今日に當り我立國の急務は内外何れを先にす可きやと云ふに我輩は斷然外を先にするの急なるを信ずるものなり思ふに内治の事も亦急ならざるに非ずと雖も明治政府が内の政治の改良に從事したるは二十餘年來の事にして着々進歩して唯その及ばざるを恐るものゝ如く其間或は輕擧暴進の失措もなきに非ざれども要するに成績の見る可きもの少なからずして遂に憲法を定め國會を開くまでに至りたるは實に非常の進歩にして僅々二十餘年間の事業としては其結果決して少なりと云ふ可らず而して彼の自治制度の如きは我國未曾有の新法にして實施の容易ならざるは勿論なりと雖も矢張り進歩中の一事業に外ならざれば若しも其決心怠らざるに於ては年月の間に效を見ること敢て難きに非ず必ずしも政府の全力を擧て一時の奏功を急ぐの必要なかる可し然るに顧みて外の關係を眺むれば内治の進歩に比して見る可きもの甚だ少なく恰も鎖國時代と同樣の觀にして開國三十年來我國民は唯急套に安んじて國内に蟄伏するのみ商賣貿易航海殖民地等海外の事業に於ては更に進歩する所なく政府の政略も亦更に此邊に注意せざるものゝ如し彼の條約改正は明治政府が外に對する唯一の事業なれども夫さへも種々の内情ありて毎度持餘す程の次第なれば二十年來日本進歩の事跡を調査して内外の優劣を比較するときは内治に割合して外事の甚だ振はざるは事實に照して明白なり眼中に立國の大計を置て施政の方針を定めんとするには何は兔もあれ先づ此點に着目すること肝要なる可きに政府の運動曾て一定する所なくして兔角眼前の事のみに忙はしきの觀あるは自から事情の然らしむるものならんか、例へば條約改正の一事の如き直に完全の結果を望むは固より無理の注文なれども我國力に相應する改正を見んとするは決して力の及ばざる次第に非ず然るに今日に至る迄其功を奏せざるは唯一種の事情に妨げらるゝのみ即ち其事情こそ政府の病根にして而して其病根の所在は他なし當世の老政治家が兔角一致協同の風に乏しく其在朝在野を問はず常に陰然對峙の姿を爲し動もすれば其陳に乘せんとする趣あるが故に條約改正の如き何人が局に當るも其功將に成らんとすれば功名の歸する所は反對の歸する所にして中途にして敗れざるを得ず從來の成行において屡々經驗したる所なれば其後を承けたる今の松方内閣が此邊の覆轍に鑑みて之を中止するの意ありと云ふも決して怪しむに足らず我輩に於ても事情の正に然る可きを察する所なれども然りと雖も立國の大計上より見れば新内閣が内を先にして外を後にするの説は何分にも贊成を表すること能はざるを如何せん聞く所に據れば新内閣は何れも第二流政治家の顏揃ひにて其折合も從前に比して案外に圓滑なりと云ふ果して然らば此際一段の勇氣を鼓して大に其方針を定むるの英斷はなきや、或は閣内の折合は惡しからずと雖も政府の内外に散在する老政治家に對しては自から嫁姑の關係を免れず陰に陽に其氣嫌を窺はざるを得ざるの事情もあらんか是れも亦年來の關係として致方なき所なれども顧みて立國の急務を見れば一日も忽せにす可らざるものありて今日は内の事情など云々す可きの時に非ず斯る場合に臨みながら新内閣の人々が内治の末にのみ汲々して更に外に對するの經綸を思はば商賣貿易殖民航海等の事業は勿論年來行掛りの仕事なる條約改正の談判さへも之を中止して自から得たりと爲すが如きこともあらば我輩は國家の大計よりして其方針に同意すること能はざるものなり