「我國海軍の急務」
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時事新報に掲載された「我國海軍の急務」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
近來世上に海軍の論、盛にして其説く所を開けば何れも軍艦製造の急なるを喋々せざるはなし海軍の擴張に軍艦製造の必要なるは勿論なれども我輩の所見を以てすれば方今我海軍實際の要務は何は兎もあれ先づ士官の學力と實驗力とを發達せしめ且つ之と同時に水夫の教育と熟練とを進歩せしむるに在る可しと信ずるなり如何となれば目下英佛等の海軍國に於て所謂一等甲鐡艦と稱する一萬頓以上の巨大なる軍艦も之を製造するには三年間にして足る可しと雖も然れども之を指揮運轉する將官以下水夫に至るまでを養成教育するには幾十年の歳月を要す可ければなり左れば我に幾十隻の巨艦艨艟ありと雖も之を指揮運轉するに其人なければ更に其效ある可らず即ち士官の養成を今日に要する所以にして我輩は専ら事實に據りて其必要の理由を説き聊か世人の參考に供せんとするものなり
方今歐洲の諸國中にて海軍の最も進歩したるものは英佛の二國を以て首と爲さゞるを得ず而して兩國の海軍に於て其士官を養成するの實際を見るに士官たる可きものは大抵十三四歳乃至十六七歳より海軍兵學校に入りて士官職業の初歩を修め校に在りて修學すること若干年、校を出でゝ遠洋航海に從事すること若干年、艦隊乗組見習役たること又若干年にして其間半ば學科を修め半ば實地見習を爲し斯くて廿四五歳にして始めて尉官に任ぜらるゝものなり而して此尉官たるものは海上の實務は申す迄もなく砲術、水雷術、航海術等の諸専門科を修むること若干年、三十七八歳乃至四十歳にして佐官に昇進し佐官の職に在ること若干年、凡そ五十四五歳にして將官に進むを例とす而して佐官たり將官たる其年限の間と雖も實地に學藝に要職に常に其務に鞅掌して黽勉怠ることなく苟も愉安に經過するものに非ずと云ふ
右の割合に據れば英佛の海軍士官は少年より學校に入りて其職業を専修し校を出でゝ始めて尉官に任ぜられたるときは既に海軍に在ること凡そ十年間、佐官に昇りたるときは廿五年間餘、而して將官に進みたるときは殆んど四十年間の學習實驗を經たるものなり然るも尚ほ職に勉めて倦まずと云ふ彼の國々の將校輩が學術に達し實驗に富み海國の海軍士官たるの任務を全ふするも謂われなきに非ざるなり
顧みて我國海軍の發達を見るに其年齢甚だ若くして未だ幼稚の域を脱せざるは世人の皆知る所なれども茲に聊か其概略を述べんに明治の初年政府は始めて海軍省を置き從來舊幕府を始め各藩に所有したる軍艦運送艦を召集して始めて帝國海軍を組織したれども所謂烏合の衆に過ぎずして各艦々内の規則と云ひ紀律と云ひ又士官水夫熟練の程度と云ひ何れも一樣ならず當時或艦の如きは艦長士官と稱する人はあれども艦の運轉は全く古流の水先なるものを雇使して之に一切の事を任じたりと云へり其不完全不始末なる以て想見る可し然れども其後年を經るに隨て次第に整頓を告げ漸く一定の海軍らしきものとなりたるは盖し明治十年の頃なる可しと云ふ
左れば我海軍の年齢は明治の初年より起算するも二十四年に過ぎずして之を明治十年より計ふれば僅々十四年間の成長なれば彼の英佛の海軍の如く幾百十年來の發達に由りて今日の整頓を致し殊に其士官養成の法の如きも前記の通り幾十年間の學習經驗を積みたるものに比して我海軍士官の學力實驗力に乏しきも固より怪しむに足る可らず然るに今この實際の事情を究めずして世の論者の如く漫に莫大の金を投じて一時に巨艦艨艟を製造するは俗に所謂小兒に甲冑の諺に等しく先進國なる具眼者の笑を免れざる可し
是れに由りて之を觀れば今日至要の急務は今より更に海軍の學術技藝を修むることを奬勵し又遠洋の航海を盛にし今の士官にして學力あるものは之に實地の研究を積ましめ既に實地の經驗あるものには之に學藝の研究を促し學力實地兼備の士官を養成するの方針を一定し之と同時に水夫の教育熟練の奬勵をも怠らずして固く其方針を取り鋭意實行を勉むるこそ緊要なれ斯くて今より廿五年乃至三十年の後即ち明治四十九年より五十四年の頃ともなれば我海軍士官の學力實地力も十分に進歩して上下共に彼の歐洲海軍國の同等士官と相匹敵するに至る可し、扨この塲合こそ即ち我腕利なる士官の指揮運轉に供する軍艦を要す可き時にして其軍艦とても亦一時に製造し得べきものに非ざれば此廿五年乃至三十年間に於て我國理財上の緩急を謀り漸を以て製造す可き軍艦の大小、種類、隻數及び之に要する金額を定め是れ又一定の方針に隨て着手す可きこと勿論なれども其所謂造艦方針は追て之を評論することゝ爲し本篇は唯世間の漠然たる海軍論者が實際の事實を問はずして只管軍艦の製造を急にし以て海軍擴張の要旨を得たるものと爲すの誤を但し今日我海軍の緊急要務は第一士官養成に在る可しとの主義を先進海軍國の例に照らして聊か説明するに過ぎざるのみ