「艦隊と生絲」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「艦隊と生絲」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

支那の北洋艦隊が此程我國に來航して舳艫相銜むの偉觀を示せしより俄に世上の評判を高くし其船體の堅牢壯大なるは我海軍の及ぶ所にあらず將卒の熟練も亦侮る可らず抔とて緩帯長袖の論客のみか數年前までは支那の軍艦と戰ふに武器を須ひず繩一筋にて分捕すべしと勇みたる軍人さへも今や舌を捲て窃に驚き海軍擴張論に一層の急を加へたるものゝ如し支那の海軍盖し或は進歩せしならん列國競争の今日に當り我輩は何事も他に後れを取るを好まざる者なれば啻に國防の點のみならず日本をして東洋に重きを成さしめんが爲め又我が商略を輔護せしめんが爲め種々の邊より觀察して海軍の擴張は素より希望する所なれども世人が今支那海軍の進歩に驚き俄かに猛省するの色あるを見るに付け我輩は別に一事の注意を乞ふて警戒を促さゞる可らざるものあり即ち同國に於ける生絲の競爭是れなり抑も生絲は我國輸出の重要品にして今後我立國の命脈は唯この繊々たる一縷に懸ること何人も爭はざる所なれば其商况の一進一退こそ實に國運の興廢を來たすものにして重く依頼せざる可らざる至寶なれども此品たるや獨り日本特有の物産にあらず伊、佛のことは暫く擱き隣國支那は天與の蠶地にして其領域甚だ廣く剰さへ天然の蠶質を比較すれば我國に優ること一段なりと云ふ唯これに人口を加へて製造するの熟練に乏しきが故に需要地の評判宜しからず隨て販路を擴張すること大ならずして我蠶業に取ては俗に云ふ鬼の來ぬ間の洗濯なれども若しも一朝睡を醒まして製絲改良の實を擧るに至るときは世界の生絲市場に大變動を及ぼす可きは必然の勢にして蠶業立國の我國の如きは之が競爭に惱まさるゝこと果して如何計りなる可きや同じく是れ進歩にても生絲の進歩の懼るべきは夫の海軍の進歩の懼るべきよりも更に大に懼るべきものなるに世人は獨り目前の海軍に切にして將來の生絲に着意せざるが如きは我輩の窃に憂ふる所なり蓋し軍備は假令へ今日に不充分なるにもせよ資力だに攝iすればイツにても之を擴張すること難からざる其上に一任戰爭に打負けたりとて干戈の敗軍は之を癒すことも容易なるに反し既に商賣上の戰に敗るゝときは再び救ふに由なきに至る之を喩へば兵戰は猶ほ暴風の枝を折るが如く商戰は猶ほ淫雨の根を腐らすが如し一は外見に苛烈にして一は内實に慘酷なれば目に見て情を動かすこと外見に如くはなしと雖も心に問ふて人を恐れしむるは内實にあり我輩の常に商賣を重んずるは主として此邊の意味にして今回の事も艦隊の面目を革めたるに驚かんよりは寧ろ生絲の更に驚くべき時あるを察し其の未だ著大ならざるに先だちて悔を取らざるの工風こそ實に方今の急務なれども扨我が生絲の實况を見れば養蠶製絲に改良を要する所少なからざるのみならず其最も欠點とすべきは商路の不慥なることにして恰も投機業の如く賣買の高低多寡年々區々にして毫も標準となす可きものなければ絲商も買入注文の見込立たずして爲めに纔に發達したる地方の蠶業家を沮喪せしむることあり又大資本を抱ける商人も其危險なるに逡巡して之に從事すること能はず立國の命脈を托すべき生絲にして宛然抛棄の姿に在るは正に今日の病症なりと云ふ可し殊に海外直輸出の如きは絲業の爲めに最大一の要務なれども眇爾たる横濱同伸會社が其筋より吝なる小補助を蒙りて微かに經營するあるのみにして是れとても近來既に補助の道を失ひたる上は所詮從前の如く永續して能く發達すべきにあらず左ればとて直輸出の幼稚なる今の時に當ては假令へ其事國家の爲めにして又永遠に利uあるべきにせよ年々の損失は民間私人の堪ふる所に非ずして此有樣にて荏苒經過するときは久しからずして直輸の道も全く絶え生絲市塲はますます外人に蹂躙せられて投機の勢、年と共に進み前途進歩の期なからんは少しく事情を知る者の皆悚然として歎息措かざる所なり啻さへ斯る不祥の兆候あることなるに天然の美質を具へたる支那の蠶絲に改良を加へ卒然として競爭塲裏に猛威を逞ふすることならば恃み切たる我生絲も早や是迄と覺悟せざる可らず之を艦隊の武威に比すれば孰れぞや况近來は支那絲も漸く販路を擴め本邦絲の大得意なる米國に輸出するもの報告表に徴して少なからざる上に此程も同國の慈禧皇太后は蠶織を奬勵せらるゝの目的を以て宮中に綺華館を設け全國に令して熟練の匠人を撰拔し着々經營せらるゝ等決して之を等閑に付す可らず我朝野にして今日に振はすんば我輩は噬臍の悔、遠きに非さるべきを惧るゝなり願ふに世人は國防の爲めに海軍の擴張すべきを知り軍艦の入費の莫大なるを吝まざらんとせり若しも生絲の我國に重要なるは軍備の重要なるに比して優るあるも劣るる可らざるを知らば生絲市塲に改良の方法を施すと齊しく國防に費用を投ずるの心を以て移して蠶業の前途を保護し敢て國財を惜まざらんこそ愛國の實なる可し其手續方法に至ては別に講究する所あるべしと雖も今や支那艦隊の來航によりて世に國防論を催ほすを聞き我輩は爰に商事上の國防を陳べ以て絲業保護の決心を促す者なり