「公費と寄金」
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時事新報に掲載された「公費と寄金」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
公費と寄金
教育に關する我輩の宿論を約言すれば凡そ人民の目に一丁字なきは經世の害を醸すべきが故に最下等の教育は國家の義務として之を普及せしめざる可らず又文明の花とも稱すべき最高等の教育は自から經濟損得の談を離れたることにして人民の私に叶はざるが故に所謂學の精、理の粹を究めんが爲めには公費を以て支給するも亦已むを得ずと雖も最高等以下最下等以上の教育に至ては個々人々おのおのその營生の〓に供するものなれば他の衣服飲食と均しく銘々の私財を以て之を買はしむべし公費を投すべき筈に非ざれば今の大學中學等はその當を得たるものと云ふ可らず之を全廢して民間の自然に一任するも天下の父兄は既に子弟教育の要用を熟知するが故に民力相應の私立學校に入るゝも又は外國に留學せしむるもありて文明の進歩に妨げなかる可きのみか濫に公費を抛て不相應の弊に陥ゐり無産の子弟を多學ならしむるよりは寧ろ智力と財力との平均を量りて國家人民の健全を圖るに如かずと云ふに在りて發して學校經濟論となり公立學校存廢論となりたるも要は此意に外ならざりしなり
然るに或る論者の説に公費を以て此等の教育に支給するを不可なりとせば有志者が學校に資金を寄附するも亦た不可ならざる歟若し然らずとすれば公費と云はず私費と云はず他の補給によりて無産の子弟を多學ならしむるの結果は同一なるべしと難する者あり此説たるや小學の學童も猶ほ能く其當否を辨すべき次第にして特に爰に論談するは誌面に對して聊か忸怩の思ひなきに非されども大學の大學者と云はるゝ人々にして斯る菽麥の相違に惑ふ者もなきに非ざれば新聞紙を民育の一具として成るだけ了解し易き樣暫く説明の勞を取らんに抑も公費と云ふは法律により徴収したる人民の資財にして其中央政府に集るものは國庫金と云ひ府縣郡に止まるものは府縣郡の公金、市町村に止まるものは市町村の公金と名づくべきものにして一旦法律に決したる上は溢るゝ涙を拭ふても此納金は避く可らず若しも納金に堪へずして期限に至るも猶ほ埒明かざるときは家財道具を差押へ其筋の手にて之を賣却し定めの賦課金を引去ることにして公賣處分とは此事なり其徴収せらるゝや既に此の如くなる上にイヨイヨ政府の手に入りて例へば學校教育費等に使用せらるゝときは國會を經過するの外復た之に向て喙を容る可らず廣大不用の建築に不經濟を極め、三月一回出席の教師も其儘に給する等耳に聞くさへ堪へ難きことありとても之を如何ともするに由なきは則ち公費にして從來に於て殊に其著るしきを見たる所なり有志の寄金は即ち然らず寄附するとせざるとは人々の隨意にして而も寄附と云へば單に富豪の餘裕を捨てゝ後を顧みざるものゝみに非ず教育上の篤志より資金を寄附して學校の維持を助けんとする人こそ多ければ其使用法に付て可否を容るゝも固より當然の勢にして萬一その意に適はざるときは寄附の約束を取消すべしと云はれても學校は之に對して一言を爭ふべからず之を彼の公費に比すれば其性質も其効力も素より同日の談に非ざる次第は火を覩るよりも明白なるべし假に私立學校が有志の寄金を使用すること彼の官公立學校が公費を使用するが如くならしめなば天下誰ありて爲に義捐する者ある可けんや官公立學校の當局者が法律により徴収したる公費を使用して恰も人民が寄附したるものと想像することならんには是れぞ末代までの奇談にしてヨモ左樣のことはある可しとも思はれず公費と寄金とは斯る相違あるにも拘はらず一概に之を他の補給なりと稱して無産の子弟を多學ならしむるの結果は兩樣同一なるべしと論ずるに至ては唯驚くの外なし日本の今日に如何程の寄附金あればとて公費と同樣の巨額に達すべしとは思ひも寄らざる所にして是非とも授業料を以て基本となし無産の子弟を遠ざけざるを得ず或は同額に達するも其結果の不味なるときは有志の打捨置かざるや勿論にして當局者が公費を投じて多々ますます無産の子弟を養ふと一方には授業料を徴し一方には有志の寄金によりて教育を完美ならしむるとは本來これを併論すべきものにあらず此邊の區別を解せずして漫に時事新報の教育論を批評せんとするに於ては我輩は之に應接するの煩に堪へず兒戯に均しき説明を以て一日の紙上に墨したるは窃に慚る所なれども之によりて有志の寄金は奨勵すべし公費の補給は不可なりとの意味を會心せしむることを得ば蓋し教育事業の幸ならんのみ