「北海雜説拓地殖民」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「北海雜説拓地殖民」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

北海道に關する總論は世〓に之を筆舌して殆んど餘〓なきが如し我輩は勉めて其繁を避けて爰に先づ拓地殖民の成績を略評せんに抑も北海道を有望の富源と稱し與論これに傾きて着々移殖を企つるに至りたるは特に此三五年以來のことなれども基本を尋れば明治政府が開拓使を設け方針政策を決したるが故にして當時の如きは荊棘天を蔽ひ、堆雪地を塞ぎ、猛熊人立、怪狐〓鳴、〓に走獣飛禽の國土なりしに此暗憺〓殺の境を〓〓し士人〓夫の〓導に任せて時に雪片を〓んで渇を〓し時に枯草を結んで蓐に代へ札幌區を〓の野に計畫し錢〓街道を熊穴の傍に定め苫小牧驛に通じて東海岸に達し釧路に根室に北見、天〓の北岸に至るまで開いて以て今日の基をなしたる先達の辛苦は境を踏んで轉た追〓の〓に堪へず永世滅す可らざる偉功を云ふて不可なけれども扨それより現今に至るまで創業に守成に經營計畫の成行を察すれば期望と實際と齟齬したるもの少なからず無限の辛苦を〓んで莫大の國〓を費消し得る所を以て失ふ所を償はざるは遺憾と云ふべし現に本道の地味の一體に肥沃なるは蓬の丈三四尺以上に達するを見ても明白にして其他野生の桑〓は〓て以て〓を養ふべく廣原の〓冬、蕨、牛〓、土筆の類は〓て以て〓茂し牛馬〓〓の生育も亦宜しく雪中久しけれども越陸地方と大異なくして眞に有望の富源たるに背かざるに然るに到る處猶ほ鬱々蒼々として未墾に属し〓代地の儘に〓棄せらるゝものは是れ豈單に着手以來日猶ほ淺きが故のみならんや蓋し種々の事〓もあることならんと雖も元來拓地殖民の設計たる永遠に亘るべき大業なるにも拘はらず官邊に濃なる〓實因〓の弊、動もすれば其方針を左右したるを第一として運輸の便に乏しき事、〓地なる廣原に堀割の企てなき事、移民の種類は〓ね貧士族を誘導して貧農漁民を後にしたる事、屯田兵も亦貧士族の居多なる事及び土地貸拂法の不完全なる事等は必竟原因中の重なるものならん歟

右〓實云々の弊は今度新任長官の最も心を用ふる所なりと云へば〓徃を咎めずして將來を〓ることゝ定め次に運輸の便は當局者も〓〓に忘れざる所なる可ければ成るべく費用を〓して成跡を大ならしめんことを〓るの外なく又掘割即ち開水の業は是れも當局者が費用の爲めに不如意を感ずること少なからざる由なれども茫々たる大原曠野唯排〓の道なきが爲めに空しく委棄して〓〓を入るゝこと能はざるは我輩の見るに〓びざる所にして或は政府が一種の約束を設け堀割成功の上は沿岸の地幾千を與ふべし杯とて民間の金を募るの趣向も一法なる可し又或は世の富豪家が大に慈善の事を首唱し經世の要務を助るとて是等の事業に散財して貧民の移住に便利を與ふる等は富豪家自身の利害の爲めにも〓ぶる有効の機轉なるべし次に貧士族の移住は我輩の甚だ感服せざる所にして内地の始末一偏より見れば此種族こそ正に移住せしむべきものゝ如くなれども北海道を以て内地の掃溜となさず眞に拓殖の實効を奏せんとするには貧士族の移住は實に好ましからざるを覺ゆ本來窮達貧富は大抵自から招く所なり士族にして窮せんか其郷里に於て窮せしめよ殊更に費用を投じて新開地に誘ふとも困窮は依然たる困窮にして剰さへ惰風を移すの〓もあれば之を從來の移殖に關する一大弊として我輩は寧ろ水呑百姓に左袒せんとする者なり又彼の有名なる土地貸拂法の不完全なる次第は次に之を開陳すべし