「海外旅行を自由にす可し」
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時事新報に掲載された「海外旅行を自由にす可し」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
近來我國人の海外に渡航する者次第に揄チするに就き漸く世間に物議を生じたる其次第は
渡航の男女悉皆正業者にあらず中に或は破廉耻の貧書生もあり無ョの破落戸もあり博徒も
あり盗賊もあり又言ふに忍びざる醜業を營む婦女子も少なからずして隨分見苦しき樣なれ
ば海外に旅行する我國上等社會の人々は親しく其状况を目撃して一驚を喫し國に歸て人に
遇ふ毎に在外本邦人の不始末不體裁の樣子を語り此の如き事ネは我日本の面目にも關する
ことなれば速に何とか方法を設けて弊風を改めざる可らずと熱心に議論する其最中に在外
留学生の通信書及び領事館の報告書など續々到來して皆同一轍に弊風矯正の必要を痛論す
るが故にこは打棄て置く可きに非ずとて朝野擧て騒ぎ立ち先づ差向きの策として斯る見苦
しき者共をば其日本を蹈出さゞる前に早く差止るに若かずとの方針を定め現に外務省にて
海外旅行を出願する者あるときは出願者の身分、旅行の目的等を巖重に吟味して少しにて
も疑はしき廉を發見するときは容易に免状を與へざるの内規を設け成丈け下等人民の外出
を檢束することゝはなれり然るに我輩は始より斯る姑息の方略に反對する者にして之を悦
はず若しも政府が徒に國體云々の説に酔ふて人民の運動を妨ぐるが如きあらば其結果は却
て眞成の勞働者をして全く海外に移住するの機を得ざらしむるに至る可しとて屡々我紙上
に其次第を述べたることもありしが近頃又聞く所に由れば外務省に於ても數年の經驗に海
外旅行の件に干渉することのuなくして却て害あるを接見し自今は更に方針を改め成る丈
け手を控へて自由に人民の旅行を許すことに决したりとも云ふ我輩は偏に此説の眞らんこ
とを祈るのみ抑も海外旅行を願出る者の身元等を取調べて漫に旅行免状を下附せざるの精
~は我日本の耻辱となる可き下品の男女は深く之を國内に隠蔽して外人の眼に觸るゝこと
なからしめ其代に國民中粹の粹たる最良の人物を海外に出して日本人の品格は凡そ斯の如
きものなり此見本を見て一般を知れと云はぬ許りに自から誇りて以て我國の面目を世界に
輝かさんとの趣意にてもあらんかなれども此の考案の原を糺せば全く一種の感情に過ぎず
して决して國家永遠の利害を考へて案出したる説なりとは思はれず今〓に其計畫通りの結
果を得て良民のみを海外に出だし無ョ者の類は悉く之を内國に閉鎖することを得たりとす
るも果して如何なる利uある可き哉西洋國人は海外に在留する少數の日本人が品行正しく
實業に從事するを見て日本は君子國なり尊敬せざる可らずとて我國の威光に感服す可きや
否や我輩は萬々其事なきを保證する者なり况んや實際に海外旅行者の身元を取調べて玉石
を區別し玉を外に出して石を内に留むるが如き器械的の仕事は人力の及ぶ限りにあらざる
に於てをや近年英米兩國にては他國より無ョ貧漢の頻りに移住し來るを忌み大に之が防禦
の手段を施し居る其際に一方に於て日耳曼、伊太利等の諸國にては色々手を盡して自國の
貧民無ョ漢を英國若くは米國等に送り付んとて盡力しつゝあるよし何となれば赤貧の無ョ
漢を國中に置くは國の損なればなり然るに我日本に於ては之に反して官民共に力を盡し無
ョ漢を自國に留め置かんことを務めて其謀に苦むとは實に我身に關する利害をも知らざる
者の所爲と謂ふ可し是即ち我輩が海外旅行檢束策を目して數理に非ず感情に基きたるもの
と云ふ所以なり之を要するに今日我國の急務は大に國門を開て海外旅行を奬勵するに在る
のみ彼の旅行免状附與の手續なども大に簡略にして唯一通りの儀式に存し置き誰れ彼れを
問はず需に應じて容易に之を渡し又彼の醜業婦女の渡航の如きも人間社會に避く可らざる
弊事と見做して大目に看過し唯時々目に餘る程の不都合を制する位にして然る可し若し左
もなくして惡を惡むこと甚だしく強ひて之を制止せんとしたらば其目的は達すること能は
ずして却て圖らざる邊に新弊害を生ずることある可し經世家の當さに注意す可き所なり