「砲臺建築の方略」

last updated: 2019-09-29

このページについて

時事新報に掲載された「砲臺建築の方略」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

海岸の防禦は軍艦と砲臺と相待つものにして二者其の一を欠く可らず我國にては近來海軍

擴張の説盛にして軍艦の製造も追ひ追ひ歩を進むるが如く又砲臺の建築も東京灣、下ノ關、

紀淡海峽等は既に着手して明治六十二年度を期して完成する筈なれども當局者間には次期

の議會に於て尚ほ全國要地の海岸防禦を全ふするの案を提出し且前の年限をも短縮するの

議ありと云ふ我輩の所見を以てするに砲臺の建築は戰爭上國防の爲めにするものに外なら

ずと雖ども平時に在りても國力を外に示し隱然國の重きを成すの効能は甚だ大なるものあ

るが如し例へば英國のジブラルタル、モールタの砲臺の如き又露國のクロンスタツドの如

き何れも世界に有名にして敵國の望んで恐るゝ所のものなりと雖も其これを恐るゝは必ず

しも實戰上に經驗して其堅牢鞏固を認めたるが爲めに非ずジブラルタルなり又は其他の砲

臺なり共に要勝の位置を占め船舶交通の衝に立つが故に人の舟して茲を過ぐるときは之を

目撃せざるものなく之を目撃して心に感ずる所は自から口に上り筆に現はれて廣く世界の

耳目に入るが故に其名も次第に高くして隨て其國の重きを成すものなり之を平時に於ける

砲臺の効用と云ふ砲臺の用は戰爭を待て始めて現はるゝものに非ざるなり明治十四年出版

もV先生著時事小言に左の一節あり恰もこの趣を寫したるものなり

(前略)砲臺の實用は戰時の防禦に在りと雖も無事の日に於ても亦功用の大なるものあり

其次第は舊幕府時代の御番所即ち法廷は其表門の裝ひ巍々として玄關の構へ甚だ洪大なり

人民の訴ふる者又願ふ者は徒跣して門に入る、門内左右の一方に極めて狹隘なる小戸あり

て常に閉づ、即ち潜戸なり此潜戸を開て鞠躬して内に入れば監戸の小吏直に復た之を閉づ、

其閉づるや故らに劇くして響、雷の如し入る者驚吃せざるはなし戸内の暗くして細き道を

行くこと數十歩にして忽ち豁然たる廣廷あり恰も別乾坤の如し即ち法廷なり此法廷の砂利

に平服して公訴し又歎願すれば官吏は遙か高座に坐して之を聽き又これを叱するの法なり

固より專制政府の常態にして今日其得失を論するは無uの事なれども外面の裝置を以て人

の膽を奪ふの法は實に巧妙を極めたるものと云ふ可し今海岸砲臺の無事の日に用を爲すの

點は正しく此御番所の仕掛に異ならず近海要害の地に壯大なる臺塲を築て幾百斤の大砲を

据え並べ外國船の入港するものは狹隘なる海門よりして正に其砲口の前を通行することな

れば恰も御番所の潜戸を入るが如くにして船中自から肅然の情なきを得ず亦以て他の膽を

奪ふに足る可し英國の所領ジブラルタルの天險、露西亞の海門クロンスタツドの砲臺とて

人の恐怖するものは戰ふて而して後に其實力を恐怖するに非ず未だ戰はずして其力を測量

し外面を一見して先づ萎縮するものなれば其國威に關する亦大なりと云ふ可し

砲臺の效用は右の如しと雖も扨實際を見るに日本の如き四面環海の國に於て一時に各地の

海岸を固むるは到底國力の許さゞる所にして現に東京灣の如きは十數年前より着手したる

にも拘はらず其完成を見るは尚ほ殆んど四十年の後を期せざる可らざる程の次第なれば其

成功を急ぐ可らざるは勿論なれども我輩は其建築の方略に就て聊か當局者に所望なき能は

ず單に國防の實際より見れは砲臺の建築は一日も急がざる可らずと雖ども然れども之を急

にするは國力の許さゞる所なりとすれば先づ計畫を一定し漸を逐ふて其計畫を充すの外あ

る可らず當局者の見込も此邊に存することならんなれば我輩は唯その砲臺をして無事の日

にも國力を示すの効用あらしめんことを願ふのみ即ち其方法を云へば馬關長崎函館を始め

中國四國邊の港灣海峽の如き重要の塲所にして外國船の常に出入し外國人の目に最も觸れ

易き處より着手することなり之に着手したりとて必ずしも其成功を急ぐに非ず兼ての計畫

の通り十年なり二十年なりを期して徐々に進むも可なりと雖も兎に角に之に着手するとき

は工事の模樣は自から人の目に觸れ易くして其地を過ぐるものは常に之を見て之を語り傳

へ又傳へて一般の話ネを成し日本に於ける國防事業の進歩とて自然に世界各國の認むる所

となる可し即ち隱然國の重きを成すものにして砲臺の功用を平時に現はすの一法なる可し

今や當局者の間には既に着手したる砲臺の成功を急ぎ更に新工事を起すの計畫もありと云

ふ我輩は其着手の方法を前述の如くにして早く其功を収めんことを希望するものなり盖し

是れも亦國防上の一方略なればなり