「廢縣知事論」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「廢縣知事論」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

我輩は前年曾て廢縣の利害を陳じて世論に質したることあり蓋し其論旨は鐵道電信郵便の

道次第に便利を揩オ日本國中廣しと雖も東京の首府を中心として國の隅々に至る距離を算

すれば如何なる遠隔の地も二週日を出ですして徃來するに難からず况んや通信の便に於て

は殆んど對坐して語るが如き次第なれば中央政府の命令を各地方に傳へ又各地方の事務を

中央政府に具伸するが如きは俗に云ふ朝前の仕事にして置郵して命を傳ふるなどは以て

今日の便利を例す可きに非ず左れば地方の行政區劃を一變し縣を廢して其事務を郡市に一

任し而して中央政府は中央に居て之を監督するも事實に於て不便なかる可しとの趣意なり

しなれども爾来府縣制郡制などの發布ありて今日は既に其實施に着手中なれば一般の事情

も大に當日と異にして廢縣の質も容易に見る可きに非ず故に此事は姑く他日に期して我輩

は更に廢縣知事の説を提出せんとする者なり抑も今の知事の職權は如何と云ふに地方官々

制に據れば内務大臣の指揮監督に属し各省の主務に就ては各省大臣の指揮監督を承けて法

律命令を執行し部内の行政事務を總理すとありて扨その行政事務とは如何なる種類のもの

なりやと云へば法律命令の範囲内に於て管内一般又は其一部に發令するまでのことにして

事柄の少しく大なるものは一々中央政府の指揮を乞はざるを得ず其職權は誠に狹隘至極の

ものなれども之に反して其地位は勅任、俸級は四千圓より三千五百圓これを中央政府の高

等官に比するに殆んど各省の次官と同格なり地位俸給を高く定めたるは之に相當の人物を

得るが爲めならんなれども其職權を見れば右の通り甚だ狹隘にして格別の〓〓も必要なら

ざるが如し不釣合至極を云はざるを得ず蓋し廢藩置縣の當時に於ては地方官たるものは自

から中央政府の威巖を代表して民心を壓するの必要もありしが故に其地位も高く隨て相應

の人物をも要せしことならんなれども今日は既に府縣制も發布して自治の基礎漸く定まり

府縣會もあり府縣參事會も組織されたることなれば知事たるものは實際中央政府の代理者

として其指揮監督の下に行政事務の一部を支配するに過ぎず而して其事務なるものは前述

の如き範圍内に過ぎずとすれば職權の狹隘なるも固より其處なるが故に實際に於ても亦是

に相當する人物を推擧して不釣合を避くること施政上の必要なる可し我輩は常に地方官に

遇ふて質すに此説を以てすれば今日の制に於て吾々の地位は實に無用の長物なりとて自か

ら知事の不要なるを證せざるはなし盖し不要の地位に有爲の人物を置くときは却つて害あ

るを免れざるのみか不要の地位に不要の人物を養ふに至りては弊の最も甚だしきものにし

て正しく冗官を省くの趣旨に戻ることなれば我輩は斷然縣知事を廢して今の書記官の地位

を以て之に代へんとするものなり又自治制の精~に從ひ地方官は單に中央政府の意志を自

治體の上に代表するものなりとすれば從來の如く必ずしも一地方に永住するの必要もなき

が如し或は地方に永住せざれば其人情風俗利害に熟せずして事務を行ふに不便なりとの説

もある可しと雖も交通徃來困難の時代は兎も角も今日に於ては斯かる不便のあらざるのみ

か永く一地方に住居するときは寧ろ目前の事情の爲めに却て事を斷ずるの不便こそある可

きなれば我輩は知事に代ふるに今の書記官の地位を以てすると同時に地方長官は今日まで

の如く必ずしも一地方に永住するを要せず中央政府の内務省中に地方部と云へる如き一局

部を設けて茲に地方部員を置き隨時交代すること外務省の外交官に於けるが如くにして地

方の治務を擧ぐるには毫も差支なきのみならず却て從來の弊を改めて實際にuする所少な

からざる可きを信ずるものなり而して今の知事の俸給は四千圓より三千五百圓にして之を

總計すれば其額决して少小ならざるが故に今もし知事に代ふるに書記官の地位を以てする

ときは唯その不釣合を調合して地方の治務に從來の弊を除くのみならず冗員冗費を省略す

るの一點よりするも其效能の决して少なからざるを信じて茲に廢縣知事論を提出するもの

なり