「海軍士官養成に就て」

last updated: 2019-11-26

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時事新報に掲載された「海軍士官養成に就て」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

我輩が前日の時事新報に述べたる説には當局者中に或は異論の者もあるよし傳ふれども海

軍擴張の説ある今日に際し當局者と雖も流石に現在の儘にて滿足なりとは信ぜざることな

らん我輩の所見を以てするに目下我國所有の軍艦を以て差當り成し得べき丈け遠洋航海を

擴張し士官水夫の熟練を發達せしめんには先づ露領浦鹽斯コ邊より朝鮮の海港支那の諸要

港、英領香港、新嘉坡邊へ掛け常に三隻の軍艦を派遣し置き又南ボルネオ、フイリツピン

嶋、濠洲邊へ掛け一隻の常巡艦を置き又對岸大陸の北はヴァンクバー、桑港より南は智利

海岸へ掛け一隻を派遣し折々はハワイ嶋をも見廻らしめ加ふるに三年に一回位は其大小に

關せず一二隻位の軍艦をば地中海より歐洲の諸要港を巡回せしむる等の用意は實地演習の

爲めに必要のみならず間接には海外諸國に我海軍の重きを成すの利uも少なからざる可し

又今の海軍大學校の如きも高給の外國顧問を雇ひ入れ中將の校長其他從屬役員敎官の多く

して備はれるに割合し毎年僅に三十名内外の講習生を出すのみとは少しく不釣合の談なれ

ば是れも擴張して三十の數を二倍もしくは三倍し講習を終りたる士官は直に遠洋行の軍艦

に乗組ましめ又四年以上も海上勤務に從事したる士官は必ず大學校に入り講習せしむるの

制規を履ましむることゝ爲す可し斯くの如く順換の法を以て學術と實地との研究を奬勵す

ることを怠らざるときは我輩の期するが如く今より二十五年乃至三十年にして先進諸海軍

國に匹敵する士官を得ること敢て難きに非ず世間に傳ふる所に據れば今の海軍の佐官以上

には間々航海術の極初歩なる毎日推歩測をも識らざるものあり又或る艦長の如き艦の運用

は副長に航路測量は擔任の尉官に委任して自からは全く其任務に當らざるものもありと云

ふ實際の事實如何は知らざれども兎に角に士官養成の方法を實施するの一日も忽にす可ら

ざるは我輩の信じて疑はざる所なり

北海道千嶋邊に於ける臘虎密獵監視の如きも是れ又軍艦實地經驗の一事業として其季節に

は一小軍艦を派遣して監視に從事せしむること必要なる可し此事に就ては世人も兼て熟知

する如く數年來外國の奪漁者に奪はれたる國利は之を金に積りて數百萬圓の巨額にも上る

ことなれども未だ甞て一隻の奪漁船をも捕獲したるの談を聞かざるは外人をして我海軍の

不行屆なるを冷笑せしむるのみならず第一海軍が日本國に對する任務を欠きたるものと云

はざるを得ず或は千嶋近海は海霧深くして航海に難く又軍艦を碇泊する良港もなしとの口

實もあらんなれども彼の奪漁船の如きは僅々四五百噸の小船に過ぎず而も乘組員は何れも

處定めぬ烏合の漁業者にして其人數とても至て少なきに今一小軍艦の乘組六七十人にて相

應の武器をも備ふるものが奪漁船の航し得る塲所を航して之を取押へること能はずとは事

實にあるまじき談にして我輩の决して信ずること能はざる所なり曾て或る人が米國在留中

奪漁船の船長なる米人に就き實話を聞きたるに我北海道に於て年々彼等が占むる所の利は

非常にして實に驚く可き程なりと云ふ輓近英佛間に英領カナダの漁業に關する爭あり又英

米間にも我千嶋の北東なるベーリング海峽諸嶋の臘虎獵業に就て葛藤を生じ今に其局を結

はざるは世人の能く知る所なり漁獵權は國權に關すること大なるものにして之を等閑に付

す可らず海軍の當局者は入りては内閣の一政務官たるものなれば國權に關する大事には深

く注意す可きことにして單に軍艦構造を主とする武人的の意見のみにては未だ海軍擴張の

精~を盡したるものと云ふ可らず事の序に一言するものなり