「陪審官制の弊(昨日の續)」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「陪審官制の弊(昨日の續)」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

又文明の進むに從て事の利害損益の關する所ますます廣くなり徃日は僅に數百圓の損益に止まりたる件も今日に在ては動もすれば數百萬圓の波瀾を生することなきにあらざれば斯る重大なる事件を取調て適當の判决を下さんとするは多年の間しばしば同樣の問題に遭ふて間違ひなきやう判斷を爲すことに慣れたる者にあらざれば叶はざることなり石炭山又は製造所などに働く人を抽籤にて驅り集め來りたりとて其中より適當の人物を得ることは殆んど出來難きこととしる可し

陪審官は素より裁判事件に法律を應用することに付ては何事をも知らずして可なる譯なれども證據の事實に法律を應用することは其職務にして陪審官が判决を下す前に裁判官は法廷にて此事に付き長長しき高尚なる講義を爲すを例とすれども陪審官中充分に之を了解する者は固より一人もある可き筈なく其結果は唯大に法律と事實とを混雜するに過ぎざるのみ誠に迂濶極まりたることと謂ふ可し其趣は恰も病人の側に十二名の人を呼集めて病人、親屬、看護人等の口より病の容體を聞かしめたる上醫者が之に向て醫學上の講義を爲し然る後この十二人を他室に移し互に評議の上にて病人の病症を斷定せしめ其斷定に基いて醫者が相當の配劑を爲すに異ならず

シカゴ市のクロニン事件(一昨年同市の愛蘭土人がクロニンなる同國人を英政府の間諜なりと認めて暗殺したる件)を審問する爲め陪審官となる可き人を呼集めたること前後千六十人にしていよいよ法の如く人員の揃ふまでに五十三日を經過し審問の長きこと百七日の間に非常の大金を費し又右の陪審官に賄賂を贈りたりとの嫌疑にて拘留されたる者八名に及べり又ニユーオリヤンスの警察官暗殺事件の審問は一箇月を經たれども陪審官が賄賂の爲め若しくは脅嚇の爲めに速に正當の判决を下すこと能はざるを以て市の有志者は憤懣に堪へず一夜隊を爲して獄舍に押寄せ十五分間に殘らず罪人を處刑し終りたり

然りと雖も右の如く非常に時と金とを浪費することは未だ以て陪審官制の大弊事と云ふに足らず此制度の最も愚にして最も笑ふ可きは陪審官が判决を爲すとき其全數の同意を要するの一事なり今才智等しき二人の者が同じ事實の陳述を聞て同じ斷定を下すことの六かしきはよく人の知る所なり然らば則ち職業を殊にし習慣を殊にし才力を殊にする十二名異色の人を集めて恰も一人の如く合同して説を立しめんとするの困難なるは推して知る可し抑も其始に溯れば陪審官なる者は爭論の事實を親く承知せる人を集めたるものにて陪審官の外に別に證據人とてはなく一人の判决に同意する者十二名を得れば其判决を効あるものと爲したることにして此規則の精神は單に證據の充分多きを要するの一■((「黒」の旧字体のれんがなし+「占」)+れんが)に在るのみ然るに後世に至りて陪審官は必ず十二人に限り此十二人の全數が同意するに非ざれば判决を爲すこと能はずと定めたるは抑も如何なる理由に基きたるもの歟今日の實際には法律を造る立法部に於ても又た法律を解釋する高等裁判所に於ても皆多數に由て事を决するの例なるに獨り證據の判决のみに限り全數の同意を要するとは誠に解し難き事共なり全數の同意を要すとの箇條あるが爲め裁判官代言人、原被告人、陪審官、證據人等都て法廷に關係する數多の人が時を費し勞を費して折角爲し遂げたる事をも只一人の意見を以て全く無効に屬せしむること易し又全數の同意を要するが故に自から賄賂使用の念を發せしむること多し何となれば十二人中の一人に喰はしむるは多數の人を左右するよりも容易なればなり

又陪審官制の最も恐る可き弊害は陪審官が己れの利益に反し若くは己れの好まざる法律を輕視すること是なり其最も著しき例は即ち禁酒に係る法律と安息日に係る法律とにして是等の法律を犯したりとの嫌疑にて求刑されたる被告人は如何に其罪状明白なるも陪審官が盡く同意して之を有罪なりと認めたることは甚だ稀なり其結果は即ち僅に一兩人の偏見の爲めに法律を廢止したるに異ならず

今若し右の如き犯罪人の審問を裁判官のみに一任し置かば假令ひ裁判官が其法律に對する個個の意見は如何なるにもせよ公然其法律を度外視するが如きことは决して爲さざる可し元來裁判所が正當に法律を執行することを得るは其本人が各自に責任を負ひ總ての法律を尊重するが故なり然るに陪審官は己れの意に叶はざる法律とあれば蔑視して之を奉ずるの意なく又陪審官室は極めて秘密にするが故に陪審官各自の責任は有れども無きが如き姿を成して遂には現に法律を犯したる罪人をも理由なく解放するが如き不都合を生すること多し若しも或る法律にして果して眞に有害ならば益益嚴しく之を實行してこそ却て其有害の■((「黒」の旧字体のれんがなし+「占」)+れんが)を發見して速に之を廢止するの機もある可きに今日の如く陪審官の一人が其宣誓に背けば以て法律を蹂躙するに足るとありては恰も惡法を保存するに異ならず斯る風習は一日も早く除去せざる可らざるなり

陪審官制の弊害は大略前に述べたる如くなるが今これを廢して其代りに如何なる仕組を設けたらば宜しからんと云ふに吾吾の所見を以てすれば補任に依り生涯在職する三人又は五人の法官を以て陪審官に代らしむるに如くことなしと信する者なり但し其二人以上を要する所以は數人互に合議相談して事を决するときは偏頗の嫌疑全く止む可きが故なり又此法官が補任に依て職を受ざる可らざる理由は其一政黨の爲に支配さるるを防くが爲めなり斯くの如くすれば法律の施行全く政治より分離して其弊毒を受けざることとなる可し或は此仕組を用ふるときは賄賂の増加することあらんとて恐るる者もあらんがそは又法律を設けてよく其人の品行を取調べ不都合の廉あるときは直に免職するの定と爲すも宜しからん尚其上に是等の法官に充分なる報酬を給し置けば容易に賄賂沙汰の起る恐もあらざる可し又右の法官は餘りに世俗の境界を離れたるものなれば事實の問題を判决するに適さずと主張する者あれども是等の論者は今日米國の法官が大概皆賤しき身分より次第に立身して今の地位に達したるの事實を忘れたることならん人生一度び法官に登庸されたればとて其曉より忽ち我才能を失ふ者には非ず、否な法官は却て尋常の人よりも事實の判决を爲すに巧なる可し何となれば在職中同樣の事件に度度接する間には自から經驗を積で公平の裁决を爲すの能力を得べければなり(畢)