「愛國論」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「愛國論」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

近來世間に一種の愛國論あり我國と西洋諸國と相對するときは兎角我に幾分の弱身ありて面倒なる外交問題の起りたるときなど我に道理ありとは知りながらも常に一歩を讓りて彼の言を容れ成る可く圓滑に事を纏めんとするの氣味あるを見て頻りに慷慨を催ほし外人をして斯の如く跋扈せしむるは我神國の威光を損すること是より大なるはなし我獨立を完からしめんには秋毫の微も勘辨す可きに非ずとて切齒扼腕する其有樣は恰も昔日の攘夷家が外夷の無禮を惡んで之を國外に驅逐するの策を講じたる時の状况に髣髴たり而して此種の論者の目的とする所を聞けば我國體を保存して永く獨立の實を全ふし歐米諸國と肩を並べて其下に出でざるは勿論、尚ほ進んで大日本の光明を世界に輝かし海外の國々をして神國の威徳に歸服せしむるに在りと云ふ其言誠に盛にして快活なりと雖も之を實際に行ふの手段に至りては我輩の感服せざるもの甚だ多きが如し思ふに論者は之を言に發して今日直に之を實行せんと欲する者ならんなれども外國交際の常に不如意にして今の如くなるは必ずしも今の日本國人の罪にあらず世界の大勢に於て如何ともす可らざるものあれば苟も國民の分として誠を盡し恰も一國の利害を一身に負擔したる心得を以て深く自から考ふるときは斯る一大事に就て容易に發言す可らざるを悟るに至る可し盖し外交不如意の原因を究むるときは種種無量の事情ある其中にも著しきものを擧れば東西相比較して我日本國の實力尚ほ未だ厚からず、資力厚からざるが故に商賣上にも軍事上にも自から一歩を讓る所なきを得ず又日本は久しく鎖國したるが爲め國の眞面目を世界に明にするの方便少なきに反して西洋諸國の人は夙に航海に怠らずして四通八達の徃來を專にし凡そ世界中に事を生じて其事の利害に關することあれば西洋人の言は到る處に流行して或は新聞紙に或は演説に喋喋説き來りて遂に全世界の輿論を成し之を敢て爭ふ者なきが故に例へば我條約改正の如き此方に十分の道理あるにも拘はらず世界の輿論に於て之を道理なると認めざるときは俗に云ふ多勢に無勢にて唯殘念なりと云ふの外ある可らず左れば彼の愛國論者の憤るは决して無稽なるに非ず我理を非に視らるるの一段に至りては我輩も論者と共に憤りを與にする者なれども扨ここに我道理を伸して世界の輿論を左右せんとするの方便を如何す可きやと云ふに國に資力の實を積まずして空しく切齒扼腕するも内外相對するの勢を左右するに足らず、鎖國の小天地に蟄居して獨り激論を逞ふするも曾て之に耳を傾くる者なくして却て西洋諸國の人言は我東洋國の利益を抹殺することこそある可ければ此處は論者に於ても深切に勘辨を運らし唯一偏に自國の實力を養ひ自國の言論の道を世界中に擴張するの法を講すること肝要なる可し此方の實力未だ充分ならずして漫に大言を放ち人の同情相感ずる者なきに獨り愚癡を鳴らすが如きは例の蔭辨慶にして唯徒に我淺見短慮を示すに足る可きのみ人或は云ふ外交上に我實力を養ひ我言論の道を廣くするの説は妙なりと雖も人間社會の事は虚實相半するものにして彼の人を鼓舞すると云ふが如きは實際の如何を問はずして兎に角に世人の心を眠らしめざるの方便なれば今の外交に切齒扼腕の劇論大言も自から人心鼓舞の一策として見る可し愛國論者も自問自答にして自から其説の實際に行はれ難きを知らざるに非ざれども其行はれざるを悟りて默默するときは天下は無氣力の暗弱に沈む可きが故に時としては熱心を裝ふのみとの説あれども左りとは國の爲めに謀りて不深切なりと云はざるを得ず同國人民相互ひの私なれば虚實の方便も品に由りては恕す可きなれども至大至重なる國交際に關し内の人心を鼓舞するが爲めにとて漫に大言を放ち外人の耳に之を聞けば一塲の虚■(くちへん+「葛」)と認められて却て交際の妨と爲る可きのみならず果して論者の目的を達して人心を鼓舞し得たりとせんに其鼓舞せらるる者は國中何れの種族なる可きや無智痴鈍の愚民に非ざれば血氣無謀の壯者より外ならず思慮分別に乏しき愚民又少壯の輩が輕輕人の言を聞て正面より之を信ずるときは其成跡は發して攘夷論と爲り又甚だしきは局部の暴擧に及ぶも圖る可らず人心を鼓舞して國家の禍根を培養するに異ならず凡そ既徃十年以來教育の方針を誤りて政治上に奇禍を生したるの事實は識者の竊に歎息する所にして特に外交上には恐る可きの甚だしきものなれば我輩は切に愛國論者の自省を希望する者なり