「信任投票」
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時事新報に掲載された「信任投票」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
世間に傳ふる所に從へば今度の國會に於て或る部分の議員は現政府に對して信任投票を行ふ可しとて其用意最中なりと云ふ信任投票とは國會議員が國民を代表して内閣員の心事技倆を視察し其人人は果して國務に堪ふる者か堪へざる者か之を信じて之に任す可き者か議員の見る所如何とて之を投票の多少に訴へて信不信を决せんとすることなれば議塲に於ては隨分劇しき問題なりと云ふ可し扨この問題の多數を制す可きや否は固より今日に豫言す可きに非ざれども苟も議員中に斯る大事を發言する者あるは自から其原因なきを得ず盖し今の政府は維新以來功臣等の組織する所にして必ずしも政治上の技倆ある者を擧けて國務を任じたるに非ず種種無量の情實に由來して内閣の地位も定まることなれば俗に之を情實政府と唱へて政府の當局者も自から其名稱に甘んずる程の次第なれば國會議員等は先づ第一番に此政府の弱點に切込まんとし又民間に人望少なきは現政府固有の性質にして上は有識の士人社會より下は凡俗の小民仲間に至るまでも唯政府とさへ云へば之に反對して惡しきもののやうに思ふ人情なれば爰にいよいよ信任投票とあれば不信任の方に多數を得べきは必然の勢にして疑なきに似たれども我輩の竊に見る所を以てすれば或は其反對の成跡を呈することならんと信せざるを得ず其理由如何と云ふに人の心は存外に弱きものにして口に能く獨立の主義を言ふのみならず心にも之を思へども種種樣樣の利害事情に搦まるときは獨立の節操もいつしか紊れて初志を忘却し甚だしきは自から自身に背くことさへなきに非ざれば今度の投票の事も今こそ一心一向のやうなれども其中には自然に千萬無量の利害事情を生ずるのみならず自然に生せざれば殊更に之を製造して之に搦め付るの趣向もある可ければなり左れば各議員をして果して獨立獨歩の道を得せしむれば現政府に信任を表する者少なきは無論なれども其然らざるは之を稱して浮世の有樣なりと云はざるを得ず凡そ浮世の事は理窟のみを以て通用す可きに非ず理外の邊に調子を得て天下太平なるもの甚だ多し今ここに人が人を信任するの厚薄如何に就て其一例を云はんに現在の國會議員は紛れもなく地方人民の信任多數を得て撰擧★せられたること★なれば全國民の多數を代表する者と云はざるを得ず表面に於て誠に然りと雖も其當撰の際に地方の撰擧人等は多少の利害事情に搦まらざるはなし若しも全國各地の被撰人たる者が閑に一室の中に坐し假令ひ■（「匈」＋「月」）中に無限の政治思想あるも輕輕之を人に語らず撰擧などの事は之を自然の成行に任して他人に依頼することもなれれば之を周旋する者もなく况して財を散して地方の歡心を買ふが如きは一切これを斷念して唯成規の通りに投票の多數を待つの有樣にてありしならんには各地共に撰擧の競爭もなく運動もなく一錢金を費さずして自然に相當の人物を撰擧する其代りに現今の議員中或は其撰に洩れたる者も多かる可し故に今の議員は表面に於て信任の多數を得たるに相違なしと雖も撰擧の時に際しては大抵皆樣樣の運動を催ほして競爭もすれば散財もしたるものなるが故に其撰擧は自然の撰擧にあらずして何か利害事情の搦み付きたる撰擧なりと評するも不可なきが如し撰擧の當初より斯の如くなりとあれば其利害事情は當撰後の今日に至るまても粘着して容易に脱す可らず即是れ議員中にも情實ある所以にして活眼以て之を視察すれば趣こそ異なれども其情實の濃厚なるは有名なる政府部内の情實に彷彿たるものある可し故に今假に一奇案を提出し全國各地の撰擧人は利害を問はず情實を云はずして獨立獨歩の境遇に在る者と假定し此撰挙人等をして現在の國會議員に對して信任投票の事を行はしめたらば其成跡は如何なる可きや投票者がいよいよ獨立獨歩とあるからには或は不信任の方に多數を制すること國會議員が現政府に對すると同一樣ならんかと我輩の竊に想像する所なり斯る事の次第にて今の政府も情實政府なれば國會も亦情實國會なるが故に正面より論じ來れば共に信任す可らざるに似たれども人心は案外に脆弱にして浮世の事は理窟のみを以て通用す可らず事の側面より利害の付き纏ふものあるときは自から調子の平を得て無事に治まるの常なれば議員の安心は政府員の安心に異ならず百事恐るるに足らざるなり畢竟するに立憲政治の事は政府も不案内なれば國會も亦幼稚なり此政府にして此國會あり恰も好き釣合なれば今度の開塲に於ては信任投票も亦妙なる可し西洋諸國にも其例多しとの事なれば議事の調練の爲めにも行ふて差支はある可らず唯この一擧を以て現政府に不信任を表し直に取て之に代らんとするが如き豫算は我輩の尚ほ未だ同意すること能はざる所のものなり