「政府を盲信する勿れ」
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時事新報に掲載された「政府を盲信する勿れ」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
國の文明尚ほ幼稚にして社會の組織甚だ簡單なる時代に在ては政府の勢力極めて強大にして學問技術商賣工業等百般の事物一として其支配を蒙らざるはなく人間萬事政府の欲する所に從て勝手次第に之を左右することを得るが故に人民の政府を信用すること甚だ深く政府の力を以てすれば百事成らざることなしと只管これに依ョして之を尊重するの習慣は古今何れの國に於ても皆然らざるなし我日本の如きも東洋の一國として其例に洩れず殊に政治を重んじて他念なく之を推して人事百般の最上位に在らしむるの風を成したる其上に人民は二百五十年間強大なるコ川政府の支配を受け實際に其權威の盛なる有樣を見て之に感服し政府は即ち權力の源なりとの感覺を深く心の底に銘して爰に政府盲信の基を築き今尚ほ依然として其形跡見る可きものあるが如し例へば世の憂國論者が我條約改正の談判意の如くならざるを見て大に憤激し偏に罪を政府當局の官吏に歸して其怠慢無能を責むるが如きは即ち是れ政府の力を盲信するより生する所の過と謂はざる可らず抑も日本は漸く近頃こそ門戸を開て世界に出でたる新參國にして之を歐米ゥ國に比すれば分明の實力に於て尚ほ及ばざる所甚だ多くして國勢の幼稚なるものと云はざるを得ず此幼稚の身を以て老成屈強なる歐米ゥ國に向ふとなれば交際上、我弱點の多きほどに不利も亦多く敢て明言す可らざるの邊に恨を呑むの意味は我輩の飽くまでも知る所にして畢竟人の罪に非ず勢の然らしむるものなりと云ふの外なし左れば今日條約改正談判の困難なるは強ち當局官吏の罪とのみ謂ふ可らず其大原因を尋れば即ち日本國の實力尚ほ未だ足らざるが爲めに折角の談判も重きを成すこと能はずして俗に云ふ押しの利かざるものなりと答へざるを得ず或は外交談判に當局者の伎倆を要するは申すまでもなきことにして其働き次第にて困難なる紛耘も容易く局を結ぶことあり又些細なる行違よりして大難題の生することもある可きなれども是等の事情は外交上の變則にして以て平生の例となす可からず假令ひ如何なる老練の外交家たりとも其外國に向て談判掛引を為すに當て最後のョとする所は即ち自國の實力に外ならず國に實力の後楯を得てこそ始めて外交伎倆の效能も顯るゝものなれ後にョむ所のものなくしては假令ひ幾多のヂスレリイ、ビスマークありて外交の局に當るとも到底他の輕侮を免かる可らざるは勢の最も睹易き所なれば我國外交の不如意も其罪獨り政府の官吏に在らず政府も人民もゥ共に打混じて國民一般の責めに歸す可き道理なるに然るに其邊の勘辨とては更になくして唯一筋に政府に向て多を求め條約を改正す可し税源を回復す可し居留地の制を廢す可し居留人の專を制止す可しなどゝ色々勝手なる注文するは無責任の言論を以て自から好事心を慰むる者かと思へども又一方より見れば決して然らず蓋し此種の人は政府を信すること甚だしく政府を以て無上の權力を有する一種の全能者なりと思推し之に依ョすれば何事にても出來ざることなしと信する者なるが如し我輩は唯其人の心事を氣の毒に思ふのみ政府大なりと雖も鬼~の巣窟に非ず外交官吏とて矢張り平々凡々たる吾々の同類にして何事を爲し得べきや無光の光明を放て遍く世界を照らし外國人をして日本を恐懼せしむるが如き無より有を生ずる不可思議の藝術を備ふる者に非ざれば漫に其力に依ョして事を成さんとするときは必ず大に失望することあるを免れざる可し元來人民は國の本にして時の政府は唯その人民の力を恃にして事を行ふ者なれば外交の事に就ても其根本を外にして政府に一種の不可思議力あらんことを信ずるは本末を誤りたるものと云ふ可きのみ世阯J國の士と稱する人々が政府に向て陰に陽に企望し請求し催促する所を見るに唯に現行の條約中我に不利なる點を除くことのみにては未だ滿足せず更に一歩を進めて新條約中には外國に不利にして日本に利ある箇條をも設けんことを主張する者あるよし足ることを知らざる空論と云ふ可し斯る不知不足論の流行して平氣なる間は外務大臣に幾回の交迭を見るも我國に百のヂスレリイ、ビスマークを生ずるも條約改正の成就せざるは我輩の斷じて保證する所なり左れば憂國の論者も其國を憂るの志は我輩と之を同ふして正に同士同戚なれども之を憂へて之を除くの方法に至り國民の分として自から恃み自から實力を養ふを知らず只管政府に依ョして求む可らざるを求るが如きは我輩の感服せざる所なり身に責任なくして人に依ョし勝手次第に注文する議論は隨分面白くして我輩とても筆なきにあらず舌なきにあらず一論天下の耳目を驚かすこと甚だ易しと雖も唯國家實際の利害を思ふて空論に走るを得ざるのみ世阮ウ數の論者も今一歩を進め空を去て實に入らんことを斬望に堪へざる所なり