「鐵道買上」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「鐵道買上」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

鐵道買上

聞く所に據れば政府は鐵道買上の事を議し其大要は新に鐵道公債何千萬圓を發行して資金を募集し國中既成未成の鐵道を買ふて政府の一手に所有せんとするの計畫なりと云ふ國の鐵道を官有にすると私有にするとの利害得失に就ては隨分議論もあることなれども其議論は姑く擱き我國今日の事態に於ては商賣上より論するも國防上より論するも又目下の金融救濟法より視るも政府の力を以て處分するの外に妙案なきものの如し全國既成の線路千餘哩に達したりと云ふも畢竟するに先年來の會社熱に乘して僅に成りたるものにして此千哩の鐵道は未だ以て我商賣社會の交通を滿足するに足らざるのみか目下の民力にては更に之を延長し又新設するの見込あらざれば國家永遠の大計に於て商賣上の便利を謀れば一日も捨置く可き事柄に非ず又鐵道の軍事國防に必要なるは今更云ふまでもなき所なるに今日のままにして顧る者なきに於ては内國の軍備に不安心なる尚ほ其上に國防の點より見てますます安からざるものある可し例へば山陽鐵道の如き馬關に達して始めて軍國の用を爲す可きに今は會社の資力足らざるが爲めに半途の尾ノ道に中止の姿を爲して西に進むを得ず明日にも東洋問題の本局たる朝鮮支那の邊に事を生じて之に應ずるの急要もあらんに内國の交通は尾ノ道限りと云ふ不安も亦甚だしからずや又前に云へる會社流行の熱は國人をして自分不相應の事を企てしめ漫に鐵道株の募集に應じたりと雖も固より資力外の事なれば其株券の大半は借用金の抵當に使用せられ轉轉幾種の手を經て其落付く處は大小の銀行より外ならず株主は種種無量の金策に奔走して銀行に負債の利子を拂ひ又一方には會社に向て拂込みの義務を果さんとすれども鐵道の性質として開業■(つつみがまえ+「夕」)■(つつみがまえ+「夕」)より配分利益の厚きものあらざれば得る所の配分利は以て負債の利子に足らず况んや拂込の手當に於てをや迚も叶はぬこととて株券を賣放さんとすれども市塲の價は始終不景氣にして元金を償ふに足らず進むも退くも唯不足のみにして詰る處は不義理と知りながらも銀行に向て利子も拂はず元金も返さず抵當流れにして逃るの外に手段ある可らず故に今日の有樣にして唯成行に任するときは全國鐵道株の大部分は銀行の負擔に歸して其計算上に利する所なきのみならず數月前より世間に買上論の沙汰を催ほしたるが爲めに株券の市價も多少に引上げたる折柄又もや其沙汰の立消と爲ることもあらば市價は逆に激して非常の下落を致し左なきだに既に已に衰弱したる銀行は此劇變の爲めに一擧して産を破るもの多かる可し財政の紊亂これより大なるはなし抑も數年來金利低落の爲め自然に會社熱を催ほし其餘波遂に今日に至りて株券の持餘し銀行の困難と爲りし其原因を尋れば自から責任の地に立つ者もある可しと雖も既往は論して益なし我輩は唯目下の急を救はんが爲めに其發議者の誰れ彼れを問はずして買上論に賛成の意を表する者なり一度び買上と决する上は諸鐵道株の價も拂込高の以下に下ることなく株主の力に餘るものは之を賣却して多年の苦界を脱し之を抵當に取りたる銀行も計算を整理するに其方法を得べし之を要するに久しく鐵道に吸收せられたる資本を引戻して舊時の商業社會に歸參せしむるの姿なれば自から商况の不景氣を回復するの端緒とも爲る可し尚ほ其上にも政府にては商用軍用國防の爲めに必要なるときは地理を視て新設し延長するの計畫なりと云へば啻に消極的に財政の急を救ふのみならず進んで新に利を興すの用意もあることなるが故に凡そ世上に數理の思想あらん人にして之に異議を容るるものはなかる可し過日日本銀行の總裁川田氏も此事を演説して同業の人々へ告けたるよし恰も鄙見に符號したるものにして其演説の通りなれば我輩は悦んで之に同意するものなり但しいよいよ買上の實際に至りては第一その價の標凖は如何す可きや、單に拂込の高と定るも例へば山陽九州株の如きは少しく市價の上に上るのみにして至極の都合なれども關西株をも拂込と云ふときは餘り寛大に過ぎ日本鐵道株は拂込にて大に迷惑なりと云ふことならん第二色色恊議の上にて株の價は至當の處に定まりたりとして悉皆これを買上けて純然たる官有にするか又は株主の中にて賣ることを好まざるものは其儘に差置き官民合同の所有にするか鐵道の買上は素より政府の好事にあらず之を民力に任して能はざるが故に官有に歸せんと云ふまでのことなれば若しも民間の所有者が實に資金を投して事を成す可しと約束する者あれば官民合同は扨置き民間の一社又一個人に向ても其所有を許すこそ本意なれ凡そ是等の問題に就ては追追世論の進むに從て鄙見の在る所を開陳す可し又一説に帝國議會にては議員中に今回の買上案に反對する者ある可しと云ふ者あれども我輩は之を信ぜず苟も日本國の商賣軍事理財の實利益を知る者ならば今の鐵道會社を今のままに差置き是れにて滿足なりとの立言は難かる可し若しも斯る不思議の議論もあらば其議論は鐵道買上の利害にはあらずして單に政論の利害の爲めに鐵道買上の事を借用し以て一時の議論の種にするものより外ならず政熱の合併病として隨分見る可き症状なれども鐵道は日本の國家事業にして政論の爭は唯政黨員の私事のみ政黨一時の爭論の爲めに國家事〓の運命を左右して經濟社會の紊亂を致さんとするが如き沙汰の限りと云ふ可し我輩は國會議員の智徳を尚ほ之よりも高きものと認め之に依頼して斯る空論は議塲に現はるることなきを信ずる者なり