「緊急命令及び豫算外支出問題」

last updated: 2021-12-25

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時事新報に掲載された「緊急命令及び豫算外支出問題」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

今回政府が議會に提出して承諾を求めたる大津事件に就ての緊急命令并に岐阜愛知兩縣下の震災救濟及び河川堤防工事費に關する豫算外支出の問題は取敢へず一昨日の紙上にも述べたる如く全く儀式上の事に過ぎずして議會に於ても別に異議なきことならんと思ひしに議員の中には或は異見を抱きて不承諾を主張する向きもあるよし甚だ解す可らざる次第なれば念の爲め尚ほ爰に一言せざるを得ず抑も大津事件は幸に無事の終局を告げて今日は痕迹の尋ぬ可きものなしと雖も其當時に於ては實に非常の出來事にして事の次第に由りては或は國の安危にも係る程の大事件なれば之が爲めに全國上下共に心を傷めたるは申す迄もなく畏れ多くも天皇陛下には深く宸襟を惱まされ親から玉體を勞して遽に西京に行幸あり至尊の御身を以て事の衝に當らせられたるは世人の心に銘して忘るること能はざる所なる可し當時君臣上下の心情は只管日露交際の平和を祈るに在りて其平和を保つの手段としては苟も利あらんと思へば如何なる事にても之を行ひ害あらんと認れば如何なる事にても之を警めざる可らず即ち彼の緊急命令は此事情の必要に發して當時に於ては何人も必要を認めたるものなり然るに斯る非常の大事件も君臣上下の至情至誠に由りて幸に事の結局を致し正に愁眉を開きたる今日に至り然かも智能の府と稱する國會の議塲に於て騷騷しく反對の議を唱へ不承諾を主張するとは之を目して正氣の沙汰と云ふ可らず假に一歩を讓りて議會に於て承諾せざるの决議を爲したりとするも元來彼の命令は時の急に發して今は既に無效に屬したるものなり事の機宜をも察せずして無用の辨を費すは議會の本色に非ざる可し次に豫算外支出の件に就て異議を唱ふるものは強ひて憲法の適用を論じて議會の開期切迫の折■(てへん+「丙」)、政府が處分を猶豫して其議を問はざるを咎むるが如くなれども苟も普通の心ある者ならんには實際の事情を一見して直に事の當否を判斷するに難からざる可し開會の期切迫したりと云ふも震災の當日より開會の今日に至るまでは殆んど一月間の時日ある尚ほ其上に支出の案を議塲に提出して彼れ是れの議論に日間を取るときは之が爲めに又數十日間を費さざる可らず或は緊急の必要を認めて速に臨時會を開かば可ならんとの説もあらんなれども如何に至急を要しても全國の議員を召集して會を開くには十數日間の時日はなかる可らず然るに過般の大地震は非常の大變災にして其慘状は今更いふに忍びず既に家を失ひ財を失ふて食ふに物なく着に衣なく饑寒交交至る其上に木に敷かれ石に打たれ又は火に燒かれて或は手足を失ひたるあり或は臟腑の現はれたるあり或は全く燒け爛れて身に完膚なきものさへあり一一筆紙に盡すこと能はざるのみならず堤防の破壞は兩縣下にて數十里の長さに亘りて今日にも大雨あれば融雪出水の期を待たずして忽ち氾濫の害を蒙り再び非常の慘状を見ざるを得ず蓋し冬季の間は出水の患、少なしと云ふと雖も動もすれば氾濫の掛念ある河の畔に家を造り安心して之に住む者はある可らず如何となれば雨水の災は時を撰まざるものなればなり今や岐阜の人民の如きは全く堤防の用意なくして恰も河底に家するに異ならず危險の状思ひ見る可し左れば此危急の塲合に當り其慘状を救ひ又その危險を防ぐが爲めに豫算外の支出を爲したるは實に至當の處分にして何人か局に當るも此外に手段はなかる可し若しも異論者の言の如く此際安閑として國會の開くを待ち其上にて支出を議するなど無用の手間を費すときは假令ひ其手續は立派にても之が爲めに幾千百人の罹災者を見殺にせざるを得ず人民は見殺にしても法文の手續は抂く可らずとならば國會は無情殘酷の極道にして我輩は斷然その廢止を主張せざるを得ず或は右不承諾の論旨は敢て金を愛しむに非ず金の支出に必要あらば有合の凖備金何十萬圓を以て當座の費用を辨し置き其餘は徐徐に謀を爲して國會に問ふこそ至當なれと主張する者もあるよしなれども誠に其主張者が身を震災地方に置て考へたらば斯る緩慢なる處分に甘んじて能く安心す可きや否や如何に他人の事なればとて少しは其情を察せざる可らず無數の罹災民は醉えるが如く狂するが如く身躬から其身の在る所を知らざる程の有樣なれば此時に當りて最第一の要用は何は扨置き先づ其情を慰るより急なるはなし汝等の不幸は無上の不幸にして實に言語に絶へる次第なれども天命これを如何ともす可らず然りと雖も棄る神あれば亦助くる神もありて日本國中の同胞は救助の事に怠らず政府も日本國民を代表して即時に二百何十萬圓の臨時支出を命令したり斯くある上は老若男女一人として飢寒に死する者はある可らず彼の恐ろしき堤防の破損も即刻より修繕に着手して萬萬危險なしと明言すればこそ恟恟たる民情も漸く鎭靜して恒の心に復す可きことなれ然るに此狂亂の眞最中に居て四角四面に救濟法を論し地方民の難澁は左ることながら政府には自から政府の法あり追て國會も開塲することなれば其節に至りて何分の沙汰に及ぶ可し今日の處は些少ながら先づ何十萬圓を限りとして精精忍耐いたせな説諭しても誰れか之に耳を傾くる者あらんや左れば今回臨時支出の二百二十五萬圓は實際に救濟の用に供したると又一方には機に應して民情を慰めたると一擧して兩樣の効を成したるものなれば我輩は飽くまでも政府の機轉を賛成する者なり或は何事に就ても政府の處置に反對するは今の議員の流義にして本案に就ての異論も是れに外ならずと云ふものあれども反對も事にこそ據れ斯る問題にまでも反對するは窮策の最も窮なるものにして議員の爲めに謀れば如何に巧に辯を振ふも國民全體の徳義心に壓倒せられて唯徒に無情殘酷の名を買ふに足る可きのみ又實際に於ても議會の全體は决して無情殘酷のものに非ず前説の如きは畢竟一部分の内議に過ぎざることならんなれば我輩は此問題の目出だく議塲を通過することを疑はざる者なり