「新聞紙の德義」
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時事新報に掲載された「新聞紙の德義」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
政黨の機關たる新聞紙が自黨を辨護稱揚せんとするの熱心より故さらに事實を隱蔽庇曲し
て以て公衆を惑亂するの弊あることに就ては過日の時事新報上に聊か鄙見を陳べて讀者の
注意を促がしたり凡そ此類の弊は决して政黨新聞のみに限れるに非ず不偏不黨の無所屬と
稱するものにても種々無量の誘惑に陷ることなきにあらざれば其政黨に關係あると否とを
問はず單に新聞紙のコ義として自から愼しむこと清僧の分として精進を守るの心掛けに等
しからんことこそ我輩の願ふ所なれ而して新聞紙の精進を破らしむるに最も有力なるは何
物なるやと尋るに錢の誘惑に勝さるものなきが如し人生の不コその種類多き中にも錢の爲
めに誘はれて心にもなき事を記し以て世を歎き又自から欺き遂には生命よりも大切なる男
子の名譽を損するが如き不智の甚だしきに似たれども名を重んずるは精~の事にして利に
走るは肉體の慾に迫らるゝが故なり滔々たる無數の記者の中には肉體の人こそ多ければ小
衣食住の不如意なるが爲め、大は豪奢快樂を買はんが爲めに恰も思案の外に錢に溺れるゝ
ことなる可し畢竟するに記者たる者が新聞紙の事を容易に看過して紙中の一言、山より重
きの道理を會心せざるよりして僅に肉體の慾の爲めに大事を誤ることならんのみ
今を去ること二十餘年前米國紐育市にツウヰードなる者あり同市にて有名なるタンマニイ
政派の一人にして其首領の地位を占め巧に同市の撰擧人を籠絡して市長を始めあらゆる重
要なる市吏の職には皆己れと同臭味の政治家を以て之に任じ次第に市政の全權を掌握して
夫より種々樣々の奸計を運らし市の所有に屬する金圓を私に使用したる惣額凡そ一億六千
萬弗の多きに達したれども其手段の巧妙なりしが爲め數年の間世に之を知る者なかりしが
茲に同市人にオブラヰンなる者あり不圖したる手掛りよりツウヰード一類が市金を私し居
ることの證據となるべき書類を得て之を紐育タイムス新聞の社主ジヨージュ、ジョーンス
氏に示したるにジョーンス氏は直に之をタイムスに記載してツウヰード一類の公金竊取の
始末を殘さず摘發することに决心に其趣をオブラヰン氏にも話して氏の承諾を得、將に其
刊行に着手せんとしたるに何處よりか聞込みけんツウヰードは忽ち此事を知りて大に驚き
早速人を新聞社主の許に遺し幾許なりとも望次第の金を出すべければ右の書類を渡すべし
とのことを掛合ひたれども社主は固く執て動かす假令ひ何萬弗を持來るとも此原稿は渡さ
れずと拒絶したるが其後間もなくして社主の知己なる代言人某より急に氏に面談致したき
事件あるに付即刻來臨を乞ふ旨を申越したるを以て氏は何事ならんかと直に代言人の事務
所を訪ひ案内に從て一室に入り見れば中には紐育市の會計官にしてツウヰードの共謀者な
るコンノリイなる者待受け居りて社主ジョーンス氏に一應の挨拶を終りたる上此度ツウヰ
ード並に自分等の不始末に關する記事をタイムス新聞に掲載することを思ひ止まらば其報
酬として正金にて五百萬弗を進呈すべしと申出したり然れどもジヨーンス氏は遂に之を聽
かずして翌日の紙上にツウヰードの一類が紐育の市金を竊取したることの顛末を詳細に記
載して世界の耳目を驚かし其結果としてツウヰード以下の者は悉く徒刑又は禁錮に處せら
れ以て多年の罪惡を贖ふことゝはなれし而して此一擧の爲め紐育タイムスは一時に非常の
聲價を揩オて米國第一流の新聞紙となれりと云ふ
盖しジョーンス氏の如きは眞に新聞紙の獨立を重んじたる人にして天下後世に至るまでも
記者の模範として尊崇す可き所のものなり我國にても近來は新聞發行の數次第に揄チする
其中には新聞紙に必要なるコ義を忘るゝ者もある可し五百萬圓は扨置き五百圓か五千圓の
爲めにも筆鋒の動搖するなきにあらずと云ふ其心事の卑きは唯憐む可きのみなれども世人
が新聞紙を購讀せんとするに當り銅臭の筆鋒に誤まらるゝことなきやう我輩の懇に忠告す
る所なり