「地方の警察官」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「地方の警察官」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

地方の警察官

我輩は前號の紙上に於て立憲政治の運動に愛嬌の大切なる次第を述べ若しも今の政府の當

局者が愈々决心して大に運動するの覺悟ならば取敢へず從來の恩威手段を止め自から爵位

を辭して愛嬌を天下に振蒔き人氣を取るの心掛肝要なる可き旨を忠告したり當局者にして

果して此言容れ心事を一轉するに於ては甚だ妙なれども年來恩威手段の餘弊は各地方の小

官吏にまでも波及し末流の弊害却て甚しく彼の警察官が地方の人民に對するが如きは最も

著しき例にして之が爲め微妙の間に政府の人望を損すること極めて大なるものあれば當局

者が心事を轉ずると同時に末流の餘略を改むること最も必要なり若しも然らざるに於ては

假令ひ如何程に决心するも政府の人望は依然回復せず思ひも寄らざる邊に意外の不覺を取

ることある可し抑も地方の小官吏殊に警察官が其本職なる秩序保護の精神を誤りて法律規

則を文面の儘に守り政府の威光を笠に着て人民を苦しむるの事實は往々我輩の耳にする所

なれども社友の識る所の一人が近日或る地方に於て偶ま其事實を實驗したるの談あれば一

例として茲(玄+玄)に記載せんに其人は地方の一紳士にして久しく他郷に在りて此程歸

省したるが一日外出の途中風と便用を催ほしたるに地方の常として規則立たる便所の設け

もなく殊に士族屋敷の裏手にして徃來も〓れなる塲所なれば別に心も付かず傍の藪蔭に立

寄りて用を達し將に立去らんとしたる處、後より太聲にて叱咤する者あり振返りて見れば

豈に圖らんや正服の巡査にして非常の權幕にて現行犯と認めたれば警察署まで同道せよと

の言に紳士も今更心付きて種々に陳謝したれども一切聞入れず是非とも同道す可しとて警

察署に連行き凡ろ一時間も待たせる後、二三人代る代る出來り破廉恥不道德など苟も人に

對して用ゆ可らざる〓を交えて何か説諭らしき言を述べ或は我々は今こそ斯る微官に居れ

ども其心事は至て高尚なるものなりなど放言して扨最後に至り違警罪違犯の廉を以て罰金

五錢申付る旨言渡し始めて放免されたりと云ふ現に規則を犯したる不都合は致方なけれど

も兎に角に一紳士を取扱ふに斯くの如く亂暴なるを見れば其他は思ひ見る可し去る十二月

二日の社説中に記したる倫敦の巡査が他國の人に對する臨機々轉の取扱に較ぶれば雲泥霄

壤の差ありと云ふ可し右は一地方の例に過ぎざれども我輩の聞知する所にては是種の弊は

各地方共に往々免れざるが如し全體今の巡査は多くは士族出身の者なる故に一方に於ては

兎角人民を蔑視して無愛憎の擧動少なからず其一人に就て云へば心事の高尚なるは誠に嘉

す可しと雖も其心事を職掌の上にまで及ぼし爲めに他を蔑視するに至りては决して恕す可

らず如何となれば職掌上の心得と一身上の心事とは自から別なるものなればなり然りと雖

も斯くの如きは抑も事の餘弊に過ぎざるのみ畢竟その弊源を尋ぬれば政府の當局者が年來

官尊民卑の氣風を養成し所謂恩威手段を政略上に利用したる其餘弊次第次第に波及して茲

(玄+玄)に至りたるものにこそあれば當局者にして愈々悔悟の决心あるに於ては自から

改むると同時に弊源より流出して各地方に波及したる其餘弊をも悉皆洗ひ去り一切更新の

覺悟なかる可らず或は地方小官吏の擧動などは中央大政府の政略に關係なきものなりとて

軽々に看過することもあらんなれども實際に於ては决して然らず地方多數の人民は政略の

方向などに頓着するものに非ず其日々接する所のものは地方の小官吏にして其擧動は一々

耳目に映響して情に感ずるものなれば若しも其擧動にして感情を害すること甚しきときは

恰も中央政府の弊風が地方の小官吏に傳はると一般にして其感情は次第次第に上騰して矢

張り政府の不人望を招かざるを得ず殊に警察官の如きは例の恩威手段を利用するに最も便

利なる地位なれば益々謹まざる可らず小官吏の擧動决して輕んず可らざるなり右の外縣官

郡吏収税吏等に關しても言ふ可きこと少なからざれども之を他日に讓り終りに臨み序に一

言するは外ならず昨年警察官の服制を改正して警部などの服装は恰も陸軍の將校と同一樣

のものとなりたり東京府下などにては別に目に立たざれども各地方に至れば既に固有の威

嚴ある其上に服装の儼然たる邊りを拂ふが如くにして無智の小民などは一見先づ恐怖の情

を催ほさゞるを得ず益々その威光を加ふのみにして事に益なきが如し誠に小事に似たれど

も是れ又當局者の注意す可き事柄なる可し