「穀類の相塲」
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時事新報に掲載された「穀類の相塲」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
穀類の相塲
ハツチンソン原文
凡て穀類を賣買して相塲を爲すは不正のことなりとて世間の議論甚だ喧しく之を制止する
爲めに設けたる法律規則も少からざれども是等は皆事實を知らず理窟を解せざる自稱慈善
家の主唱する所にして固より取るに足らざる妄見と謂はざるを得ず元來穀類は一種の商品
にして之を賣買するは各人の權理に在り其賣買の際に出來る丈け安く買ひ出來る丈け高く
賣るも亦これ各人の權理に在ること明なり且又穀類に限らず都て物品賣買の價格は時の相
塲に從ふものにして相塲は天下の供給需要の割合に依て定まるものなれば今一人若しくば
二三人の者が此相塲に據らずして漫に自家に都合よき價格にて物品を賣買せんとするも到
出來得べきことに非ず或は商人が團結して物貨を動かすの例もなきに非ざれども其結果た
るや唯一時一處に止まりて固より廣く世界の市塲を動搖せしむるの力なし微々たる人力を
以て世界の相塲を制御するを得べしなどゝ想像するは迂濶の甚だしきものと云ふ可し
穀類の相塲は農民の爲めに利益あり何となれば穀類の賣買愈々盛なるに隨て農民は其所有
する穀類の代價を愈々速に受取ることを得べければなり但し賣買の爲めに穀類の價格の上
ることあれば又下ることもあるが故に此點に就ての利害は相半するものと見做して可なり
今天下に相塲を業とする者なかりせば農民は皆其作りたる穀類を一地方にて賣捌くの外に
路なく若しも不幸にして其地方に買ふ者なきときは空しく之を貯へて需要者の來るを待た
ざる可からず其不便不利なるは故さらに茲(玄+玄)に述ぶるにも及ばざる可し今日米國
の農民が何時たりとも我都合に從て其作りたる穀類を金錢に變ずることを得るは即ち大都
市の相塲師が時々刻々に電報を以て世界各所の市價を探知し之に從て颯々と原品を賣買し
て躊躇せざるが故なりと謂はざる可からず
相塲は又消費者の爲めにも利益あり何となれば相塲盛に行はるれば豐年には必ず穀類の市
價下落するが故に人皆惜氣なく之を消費するを得べく凶年には其市價上講ずるを以て世に
儉約の風を生じ穀類の少きに應じて消費の高を減ずるが故に俄に世間に食物の欠乏を告る
が如きことあらざればなり蓋し穀類の少きとき無益に之を消費するは社會の爲めに甚だし
き大損にして之を制止するには穀類の價を高くするに如くはなし相塲は即ち穀類の欠乏す
るとき其相塲を上騰せしむるの務をなすものにして相塲の活溌なる處に限りて聊かにても
品物欠乏の兆あれば直に其價格の騰貴するを常とす假に今世界中に僅か一斗の麥ありて飢
に迫りたる數人の者が爭て之を取り食はんとしつゝあるものと想像すべし若し此數人の爲
す所に委せ置かば忽ちに一斗の麥を消費し盡して世に麥の種を絶つに至るべき筈なれども
茲(玄+玄)に一の資本家出で來りて其麥に手を掛け集り來る者に向て此麥の價は五億弗
なりと云はゞ此聲を聞き群集は手を束ねて退散すべし是れ即ち資本の力を以て世界に麥の
種の盡きんとするを防ぐものにして其功德實に大なりと謂ふ可し而して相塲とは即ち資本
の活溌に運動することに外ならざれば相塲が公益を害するものなりなどゝは甚だしき謬見
にして其實は却て大に人間社會の幸福を增進するものと云はざる可からず
穀類の相塲に依り最も大なる損害を蒙むる者は農民に非ずして相塲師自身なり過る五十年
間に我米國に於て相塲師の捕へられて獄に下されたる者實に夥しき數なるを見ても以て相
塲なるものゝ甚だ危險なるを知るに足る可し余は千八百八十八年に米國の麥作不充分なる
を察し大に麥の買占を始めて其相塲を上らしめたることあり余の考にては同年の九月に余
の許に來るべき麥は三百萬ブツシヱルに過ぐることなかる可しと固く信じて之に應ずるの
手配を爲し置きたるに月末に至り圖らずもセントルイ市とデツロイト市とより三十三萬ブ
ツシヱル丈け餘計の麥を輸送し來り之が爲め余の胸算全く齟齬して大失敗を取りたること
あり左れば世人は相塲師を目し勞せずして巨萬の富を博するものなりとて頻りに之を批難
して止まざれども事の實際に於ては决して然らず相塲に縦事する者が一度び其處置を誤り
て事を爲し過ごすときは非常なる災難に遇ひ或は唯に身代を失ふのみに止まらずして警察
の罪人となりて獄に繋がるゝに至ることさへあり誠に危險此上もなき營業と言謂はざるを
得ず而して相塲師の分散の爲め損害を蒙むる者は矢張り大概其仲間の相塲師にして農民は
別に災害を蒙むることなし何となれば相塲社會に如何なる變動起るとも農民の手には原品
の穀類ありて穀類は即ち錢に等しければなり