「社會の耳目は甚だ聰明なり」

last updated: 2019-09-29

このページについて

時事新報に掲載された「社會の耳目は甚だ聰明なり」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

社會の耳目は甚だ聰明なり

高尚なる學者識者の眼より見れば今の社會は衆愚の府にして一人の事理を解するものなく

盲目千人又千人の譬も道理なきに非ざれども己れも亦その衆愚中の一人として扨て世の中

を見渡せば一般の耳目は甚だ聰明にして恐る可きもの少なからざるを發見す可し盖し今日

の社會は人智の進歩に連れて人々の耳目を聰明ならしむるの機關次第に發達し即ち郵便の

如き電信の如き社會百般の出来事を神速に報道し如何に些細の事柄にても之を一般の社會

に傳へて漏すことなく殊に新聞紙の如きは其事實を文字に記して一般の耳目に觸れしめた

る其上に之を永久に保存するの便利もあることなれば今の社會の耳目は啻に聰明なるのみ

ならずして永く記臆するの力をも具ふるものと云ふ可し(英國倫敦の書籍館にては世界の

各國にて發行したる古今の新聞紙を丁寧に保存し置き參觀人の縦覽に供する例にして曾て

或る日本人が取調の事ありて我國にて發刊したる新聞紙の部を一覽したるに明治十一二年

の頃一時東京にて發兌したる東京タイムス新聞を一號も漏さずに備ありしと云ふ現に我國

の書籍館にても各種の新聞紙を保存するの法あり又銘々の家にても日々の新聞紙を綴込み

て保存するもの多し一度び新聞紙に記載されたる一言一句は永く後世に傳はるものと知る

可し)左れば今の社會に處するものは一言一行の微と雖も深く注意して擧動を謹しむこと

大切なる中にも政治上の運動進退の如く社會の表面に現はれて忽ち一般の耳目に觸るゝも

のは殊に注意す可きことにして若しも其注意を欠くときは成功覺束なきのみならず或は旨

く一時を瞞着するも何時しか馬脚を見露はされて意外の不覺を取ることある可し古來東洋

の流義にては所謂豪傑の風を珍重して大功は細瑾を顧みずと云ひ棺を蓋ふて論定まると云

ひ平生の擧動には大抵の欠典あるも之を問はざるの風なれども畢竟未開の時代、一般の耳

目聰明ならざるが爲めにして今日の社會には通用す可らず例へば支那の古代に於ける彼の

湯部の放伐の如き歴史に記す所にては桀紂は天地に容れざる大罪人にして湯武の處置は一

點の非難もなきが如くに見ゆれども兎に角に斯る大革命を行ひたる其間には實際に多少の

無理は免れざりしことならん又我國の封建時代に徃々諸藩の中に行はれたる御家の騒動に

就ても世間に傳ふる所にては某は忠臣にして某は奸物なりなど其曲直甚だ明白なるが如く

なれども實際の内情を探ぐれば世傳に反對の事實も少なからずと云ふ何れも社會の耳目發

達せず内部の事情世に明ならざるが爲めにして斯る時代に於ては平生の擧動は兎も角も唯

最後に勝を制したるものは世間にても之を認めて豪傑なり人物なりと持囃したることなれ

ども今の社會は大に其趣を異にして一般の耳目甚だ聰明なるが故に政治家の一擧一動は些

細の事にても忽ち世人の視聽に入るのみならず政治家として世に立つ者は其主義意見の如

何に由り味方もあれば又反對もあるの習ひにして其反對の者共は頻りに他の擧動に注目し

て苟も欠典の見る可きものあれば忽ち之に乘じて攻撃を逞ふするか或は之を胸中に貯置き

他日の機會に攻撃の材料を爲すものあるが故に本人に於ては寸間も油斷のならざる時節に

して現に西洋の文明國に於ては近時有名の政治家にして内輪の失行の爲めに世間の攻撃す

る所と爲りて全く名譽を失ひ政治社會の外に退けられたるの例なきに非ず以て覆轍の鑑と

爲すに足る可し我國の政治社會を見るに時代の進歩にも拘はらず在朝在野の政治家共に兎

角その擧動を謹まざるの弊ありて私行上の不取締なるは申す迄もなく政治上の進退に至り

ても感服す可らざるもの多きが如し例へば人と事を共にして堅く約束を結びながら半途に

して遽に志を飜し一切の責を他に歸して己れは全く預り知らざるものゝ如くに裝ひ又は他

人の事を爲すに當り陽には賛成するが如くにして陰には種々の手段を運らし其事を妨害し

て竊に得々たるが如き我輩の徃々聞見したる事實にして或は當人の心に於ては之を以て政

治の常道と心得るやも知る可らずと雖も畢竟誤解の甚しきものなり政治社會には權變の手

段も時に免る可らずと雖も其手段は萬、止むを得ざるの塲合に於て始めて之を許す可きの

み常に陰險鄙劣の手段を事として他を妨げ獨り自から利せんとするは政治家の德義を破る

ものにして社會の擯斥を免れざる可し盖し今の政治家流は多くは封建時代に生を享けたる

ものにして平生の擧動に東洋の臭氣を免れず自から古流の豪傑を氣取りて最後の勝を期す

ることならんと雖も社會は既に封建の時代に非ず一般の耳目甚だ聰明にして且記臆の力に

も乏しからざれば若しも政治家たるものが曖昧の間に擧動して一時を瞞着したりなど心得

ることもあらば大なる間違ひにして思ひも寄らぬ時に至りて意外の不覺を取ることある可

し其結果は政治上の德義を破るのみならず遂には一身の不利に歸することなれば今の政治

家たるものは常に社會の耳目の甚だ聰明にして恐る可きものたるを記臆す可きなり