「實業社會と後進生」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「實業社會と後進生」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

實業社會と後進生

多年我國の實業社會と政治社會とを較ぶれば一方は火の消えたるが如く寥々音なきに引換へ一方の政治界は多事多端にして朝に一新事起れば夕に其局を一變し一往一來幾多の活劇は目を掩ふに暇あらず國會解散の其當時より議員撰擧の混雑に引續き政府部内の云々遂に大臣の更迭に至るまで見來り見去れば無情有情、感交々至て傍觀者の記臆に印するもの多し左れば寂寥たる實業社會と活溌なる政治社會とを眼前に控へて偖て後進生が其身を處せんとして撰ぶ所は何れに在りやと問へば其意の向ふ所政治界にあること勿論にして近時の如く風波荒くして變轉常なく昨日迄は世間に知られざりし地方人士も今日は議員當撰の榮を得て而かも院内の利物を以て目せられ花の都に英名赫々たるを聞ては羨望の情に堪へざるべく其他政府部内の不折合、大臣の更迭などを見るに付けても此風雲乘ずべし取て代はる可しなどの野心を起すは壮年者の情として無理ならざる次第なれども我輩は此壮者の志を賛けて其熱情を教唆するに忍びざる者なり今更事新らしく云ふ迄もなき所なれども政海の危險は實業界の安全に如かず假令ひ一時を僥倖して瓢瓠出駒の奇を呈することあるも遂に久しきに堪ふ可らず封建時代ならばイザ知らず今の政海に安身立命の地を求ること難しとは毎度我輩の忠告したる所にして廣き天下に爲すべきの事業は甚だ多し區々たる小乾坤の小功名を爭ふが如きは男子の事にあらざるを思へば釋然として頓悟す可き筈なれども如何せん十數年來の實業社會は種々の原因よりして動搖浮沈常ならず僅に起りたる新事業も又萎縮の觀を呈し後進生に入るべきの餘地を與へずして充分に我輩の所論を實にする能はざりしは甚だ遺憾とする所なりしに今や事局漸く變じて殖産の天地漸く春色を催ほし前途甚だ多望の時運に達せり只外面にこそ未だ著しき變化を顯はさゞれども昨年來米麥は平年の作を告げて而かも其相塲を崩さず外國貿易の如きも次第に好調に向ひて既に既に先年の不平均を醫したるなど内外の商事共に實力を增したる上に近年實業社會壊亂の種となりし新會社も倒るゝものは既に倒れて生存者は夫れ夫れ事業の緒に就き最早此上は保養にさへ怠ることなければ病勢は次第に減却して氣運既に健全の方向に進みたること之を銀券の週報、外國貿易の月表など種々の統計に徴し又は近來紡績絲の好景氣に徴しても爭ふべからざるが如し殊に慶すべきは政治と實業と相混同するの弊も漸く薄らぎたるの一事にして從來の實業は恰も政治の從僕の如く萬事政府の干渉を免れざれば實業家も亦政府の意を迎へて只管これに縁故の密ならんことを欲し官邊の一擧一動は直ちに實業に影響して其秩序を亂し甚だしきは其業務擔當の人を進退するにも官の内命を奉する程の次第なりしに今や漸く事情を逆にして既に金力ある者は却て官邊の空氣を避けて獨立せんとする者多きは時勢の變遷と云ふ可し正に是れ實業界の小革命にして自から多事ならざるを得ず此際要する所のものは文明の新思想にして現に今日にても商工の實權は次第に移動して實業家中殊に新思想ありと目せらるゝ人の手裏に歸せんとするの形跡あるを見る可し即ち我輩の所論を實にするの氣運にして前途の多望また疑を入れず後進者の宜しく乘ずべき好時機なるに然るに其人々が有為の才を抱きながら尚ほ徒に政論の花に迷はされて他に安身立命の地あるを知らず動もすれば危險に投して一生を誤らんとす我輩の甚だ氣の毒に思ふ所なれば爰に一言して此好時機を空ふせざらんことを勸告するものなり