「少年の運動遊戯を妨く可らず」
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時事新報に掲載された「少年の運動遊戯を妨く可らず」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
少年の運動遊戯を妨く可らず
前號にも述べたる如く近來我國の教育法は智育の一方に偏して體育を等閑に附するの傾あるが故に學生の身體充分に發達するの機會を得ず教育愈よ進歩するに隨て學校生徒の體格は愈よ衰弊するの有樣にして若しも此儘の成行に任ずるときは我國の上流社會は遂に心身共に因循無氣力なる病人の境界に化し去る可し誠に恐る可きことにして苟も國家の利益安寧を希ふ者は一日も速に此文弱の弊習を打破して大に學生の運動を奨勵し以て無病屈強なる人種を造り出すことに力を盡さざる可らずとは我輩宿昔の持論なり抑も年少の間は人の生力盛にして頻りに身體を運動することを好むものにして若しも其欲する所に任して他より干渉することなからんには假令ひ如何なる柔順穏和なる子供たりとも戸外に遊び戯れて運動するよりも室内に鎖籠りて靜に讀書勉強する方愉快なりと云ふものはなかる可し即ち少年は天性運動を好む者にして其好む所に任せてこそ始めて身體も充分に發生するを得ることなりと知る可し然るに維新以來世の熱心家は西洋諸國に教育盛なりとの状況を見聞して忽ち之に感服し教育なきものは文明の民に非ずとて一筋に之を奨勵したるは甚だ妙なるに似たれども其教育とは單に精神の發達を促すのみにして身體の一方は棄てゝ顧みざるのみか少年の遊戯は勉強の妨など稱して之を制止する者さへなきに非ず實に文明の誤解にして沙汰の限りと申すより外なし全國公私の學校既に此弊風を成すと同時に生徒の父兄は内より之を助け學校の教授は一分時間にても長きを願ひ讀書は一枚にても多きを喜び學校より家に歸れば今日の復讀、明日の用意とて顔色憔悴したる少年子弟を責立て勸立てゝ甚だしきは夜に入るまでも休息せしめず少年の體力漸く衰弱すれば精神は自然に陰氣に沈みて却て頴敏を增し能く道理を解して又能く小理窟を言ひ恰も大人の雛形とも名く可き片輪者と爲り、神童五歳書寫を善くし、七歳巧に文を綴るなど云へば父母喜び郷黨朋友之を譽め其片輪者をしてますます片輪ならしめ神童遂に半死の鈍物に變ぜざれば三十を出でずして斃るゝの例は世間に稀なりとせず是等の事情を見れば天下の父母は其子の精神と身體とは全く縁のなきものにして精神さへ充分に養生すれば身體は消失するも可なりと信ずる者なる歟と疑ざるを得ず我輩は世の父兄たる者をして活溌なる精神は健康なる身體に宿すとの原則を會得せしめんことを希望する者なり東京の或る私立學校にては身體運動の一課を設けて毎日二三時間計り衆生徒をして汗するまでに運動せしむるの規則を定めしに生徒の父兄の中には之を悦ばざる者あり斯る無益の事に時を費さしめんよりは其間に翌日の課業の用意にても爲さしむる方利益多しとて此課業を辭する者少なからざるより學校にても其始末に苦しむと云ふ以て一般の氣風を窺ふに足る可し
斯の如く世間普通の學校にては皆體育に重きを置かず偶ま之を奨勵せんとするものあれば父兄これを悦ばざるの有樣なれば學生社會に活溌なる運動遊戯の流行せざるも無理ならざる次第と云ふ可し盖し本人の罪に非ず少年生徒は天性運動を好むものにして他より之を妨げざるときは自然の命ずる所に從て必ず活溌ならざるを得ず故に我輩は世間の學校職員及び生徒の父兄に向て敢て少年子弟の運動奨勵を願ふに非ず唯これを妨る勿らんことを勸告するのみ