「船賃と外國貿易」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「船賃と外國貿易」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

船賃と外國貿易

運輸交通の便の忽にす可らざるは今更ら云ふ迄もなし我國にても近年海陸共に大に其便を開きたれども尚ほ不便を云々して時に船車の不足、運賃の不廉など樣々の苦情を耳にすること少なからず即ち商人が運輸の事に注意の疎ならざる一證として見るべきものなれども右は唯内國のみの事にして一歩を進めて外に對するときは其邊の注意甚だ密ならずして運輸の便不便、運賃の廉不廉は共に不問に附して外國貿易の計算中に殆ど看過するものゝ如し甚だ奇なりと云ふ可し畢竟海外運輸の權は凡て外人の手裏に歸して我商人の如何とも爲し難き所なれば之を爭ふも詮なしとて黙し去るの事情もあらんかなれども又一には船賃の年々低減して輸出向には多くの障碍を見ず嘗て之れが爲めに苦痛を感じたることなきより知らず識らず安心を催ほして無頓着に流れたるにはあらざるか若し果して去る事情もあらんには我輩は甚だ懸念に堪へざるものあり今其次第を述べんに目下の形勢より云へば世の進運と共に今後交通の便も益々開けて運賃の自然に下落す可きは更らに疑を入れずと雖も左ればとて年々歳々必ずしも下落の一方にのみ傾く可きにあらず物價に時々刻々の變動あるが如く運賃に於ても亦時に浮沈は免かるべからざるものなれば自然の大勢に依頼して安心するは商人の事に非ずと云ふ可し多年外國為替相塲の下落に狃れて銀貨問題に無頓着なりし貿易商が一朝の變動に遭ふて一昨年の大失敗を招きたるの事實に徴しても油斷大敵の次第を悟ることならん而して本年の状勢如何を臆測すれば或は船賃騰貴の虞なきを期す可らず今歐米各國海運の模樣を察するに船舶決して餘りありと云ふに非ず、荷物決して減少したりと云ふに非ず諸洋航行の船舶相應に多忙にして各地の造船所も亦閑ならず船舶の需用如何を卜すべき造船料其他此事に從事する職工の給料なども更らに下落の模樣なしと云へば仔細の調査を要せずして世界に船舶の過多ならざるを知るに足るべし只昨年來東洋に少しく空船の多かりしは南米諸國の形勢甚だ穩かならず各所に革命の變亂起りて妖雲全洲を鎖し人心洶々又商事を顧みるの暇なきよりして大西洋上の貿易甚だ面白からず船主は荷物なきに苦むの餘り余儀なく無用の船舶を驅りて東洋に競爭を試みたる其結果として意外に空船を多からしめ隨て運賃の下落したるが爲めに米穀の如き粗大の品物も其原價の高きに拘らず容易に輸出するを得たることなれども今や大西洋上の貿易は全く舊に復して船舶を要すること亦昨年の比にあらず今後は次第に空船を引上ぐることゝなる可ければ此一事にても東洋航通の船舶は餘裕を得ずして船賃に影響す可きこと理の當然なるべき其上に年來東洋諸國より輸出するものは石炭の如き米穀の如き總て粗大の素物のみ多く嵩低き製造品に對して只さへ偏積の弊あるものなるに昨年來外國為替相塲の下落したるが爲め金貨國の貨物は東洋に出廻ること薄きに引換へ銀貨國たる東洋よりは益々輸出の高を增すの傾きありて愈々船舶の不足を告げ便船毎に荷物は船に溢れて次第に運賃を騰貴せしめ結局粗大の品物は輸出の道なくして甚だしき停滯を來すことあるやも知るべからず殊に極東に位する我國の如きは往來の航路遠きが故に中途にて西洋行の荷物を積み滿船既に餘地なく未だ我國に來らずして早く船首を西することもあらん夫れ是れの事情を考れば今後我國に入港する運賃積の船は多少その數を減じて船賃の騰貴を見ることあるべしとの想像も穴勝無用の空論として排斥す可らざるが如し若しも我輩の臆測想像にして大に違ふことなしとすれば生絲の如き容積の小なるものは兎も角も差向き米穀の如き石炭の如きは少なからざる影響を蒙りて假令ひ一方に好果を収むることあるも差引外國貿易は全體の上に於て矢張不結果に終ることもあらん斯くては啻に當業者の不幸のみに止らず引て一國の經濟上に及ぼし利害の關係する所少小ならざるものあれば運賃の事小なるが如くにして決して小ならざるなり此際其局に當る人々は能く邊の勘定合を審にして本年貿易の趨勢を察し彼の一昨年に起りたる為替變亂の同輙を踏まざらんこと切に希望する所なり