「地租論」
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時事新報に掲載された「地租論」(18920429)の書籍化である『国會の前途・国會難局の由来・治安小言・地租論』を文字に起こしたものです。
本文
地租輕減地價修正の是非は近來經濟社會の一問題にして我輩に於ても自から説なきに非ざれば先づ西洋諸國に行はるゝ輓近の經濟論を取調べ又我國古來の習慣事實を明にして大方の教を乞はんとす其西洋説の大意を陳れば左の如し
人の腦隨手足は其人の所有するものなれば之を使用して造り出したる物品の本人に屬すべきは固より論を俟たず是即ち人間社會に私有權の起る原因にして若しも社會の人々が自から勞して造り得たる所のものを我私有にすること能はざるの事情もあらば今日の人間世界は一日も存在することなかる可し蓋し天の人を生するや所謂一視同仁にして何人なりとて謂れなく財物を私有して其利益を專にするを得べき筈なく此世界に在て我欲望を達せんとする者は唯勞して取るの外に路ある可からず即ち私有權は勞力より起り勞力の外に私有なしと云ふも可なり扨世の中の人は皆自から勞して造り得たる物品を所有するの權ありて他より其權利を犯す可からずとすれば彼の土地私有なるものは大に正理に反したる所業なりと云はざるを得ず何となれば凡そ人間社會の富と名くるものゝ本を糺せば皆土地より出でざるはなく土地ありてこそ始めて人の勞力も化して富となることを得るなれば今小數の人が私に土地を專有して漫に他人の之を使用するを許さゞるときは不幸にして自から土地を所有せざるものは假令ひ如何に勞働するも之に相當したる報酬を得ること能はず其身體を勞して折角造り出だしたる物も多くは地主の爲めに奪はれて勞働者の手に歸することなければなり今日世間の習慣にて人の所有物品を動産不動産の二種に分ちて土地家屋の如き動かす可からざるものと什器衣服の如き動かす可きものとを區別することあれども此區別は甚だ道理に叶はざるものにして土地所有權に係る世人の意想を誤らしむるの恐なきに非ず經濟學上より論ずれば土地なるものは家屋衣服などに比して全く本來の性質を異にする所あり即ち土地は人の勞力を要せずして自然に存在し、家屋以下の者は人力に依て始めて出來るものなれば一は天然物にして一は人造物と名く可きものなり故に土地と家屋とを混じて同種のものと認め家屋と什器衣服などゝを分て別種のものと爲すは大なる誤なりと知る可し土地は斯の如く人の勞力を假らずして自然に存在しこれに人力を施して始めて家屋衣服什器のごとき經濟上の富を生ずることなれば一個人の得て之を專有す可き道理はある可らず應さに衆人と共に與に使用して以て人間社會に必要なる種々の物品を造り出す所の富源と爲す可き所のものなり小數の者に土地を所有することを許す以上は之と共に又空氣日光等の私有をも許して可なる譯なり何となれば經濟學者の眼を以てすれば土地と空氣日光等と其性質大に異なる所なければなり抑も今日世界萬國に於て土地所有權なるものゝ由て生じたる所以の本源に溯りて其むかしの事情を尋るときは都て強奪横領にあらざれば欺騙の手段を以て得たるものに非ざるはなし徃古人口の尚ほ少なかりし時代には特に地主なるものなく土地は恰も其地に生々する人民の共有物たる姿にして耕す者は耕し獵する者は獵し人々皆勝手次第に土地を使用して其産出する所の物品を採り他より之を制止する者なかりしかども爾來人口の次第に繁殖するに從ひ此處に其一部分を割て己の專用に供する者あれば彼處にも亦同樣に之を專にして隨て私有の名を生じ遂に全土を擧げて少數の者の爲めに占領せらるゝこととはなれり而して其占領の手段としては或は詐僞を以て人を欺くもあり或は兵力を以て之を威し之を殺戮するもある種々の方便を用ひて無理に共有の地を奪取り一度び之を自家の所有に定めたる上は又隨て力を以て其所有權を守り他人をして其利益に與るを得せしめず主人死すれば之を子に讓り子は孫に傳へて子々孫々次第に遺傳する其間には自然に地所賣買の習慣も起りて遂に今日の如く夥多の地主を見るに至りたる譯にして土地所有權の本原を尋れば必ず不正不理の所爲に起因すること疑ふ可からず斯の如く土地の私有權なるものは元來自然に戻り無理なる手段にて得たるものなるに今日の地主が公然數百千町の耕地を私有し之を小民に貸して小作料を課し自から一擧手一投足の勞を取らずして巨利を收むるは道理に於て許す可からざることゝ云はざるを得ず近來社會に益々貧富の懸隔を増し富める者は愈よ富み貧しき者は愈よ貧しく富豪の者と貧賤の者とを比較すれば殆んど同じ社會に生息する人類とは思はれざる位の相違あるは文明の一大弊害にして其原因を尋れば即ち小數の地主が土地を專有して貧者の生業を苦しむるに在りと云はざる可からず今後世界の人口尚ほ増加するに從ひ貧者の困難は愈々益々甚だしきを加ふること必定にして其極遂に如何なる悲境に達すべきや吾々の憂慮に堪へざる所なり盖し人の生活に必要なる物品は都て土地より生ずる者なれば世界の人をして自由に土地を使用せしめざるは取りも直さず其生活を妨ぐるの所爲なり例へば數名の漂流人が絶海一小島に漂着してこゝに暫らく生命を繋がんとするとき其中の一人が恣に全島を以て我私有物なりと稱して他の者共に其地面の使用を禁じたらば如何ん、數人の生命は唯一人の手中に在ることなる可し今日世間の大地主が人民一般に對するの状情は毫も之に異ならず假りに彼等が一致團結して其所有地の使用を禁ずることもあらば社會は忽ち無數の餓死者を以て充滿す可きや疑を容れず假令ひ或は使用を禁ぜざるも地主等の協議行屆きて一樣に小作料を引上げても其の成跡は殆んど同樣なる可し左れば今の地主は數百千萬の小民に對して生殺の權柄を握るものなれば一個私人に土地の私有を許すの制度は既に正理に反するのみならず人情に戻るものと云ふ可し故に吾々の宿論は速に土地私有の事を廢し都て之を政府に沒入して國民一般の共有に歸せんと欲するものなれども凡そ事は成る丈け急變を避くるを宜しとするが故に土地私有の談は姑く猶豫し其代りとして更に地税を重くし凡そ小作料として地主の手に入る可きものを殘らず政府に取り上ぐるは目下の上策なる可しと信ず即ち土地を沒入せずして小作料を沒入するの法なれば地主に於ては小作料の收入を失へば土地の價は固より無に歸して其實は所有權を失ふたるに異ならず唯世間一般の感情に於て私有の地面を沒入すると云ふよりも地税を高くすると云ふ方穩に聞ゆるの都合あるのみ今大に土地の課税を重くして國の歳費は盡く地税を以て支瓣することゝ爲さば現在政府が毎年莫大の勞費を棄てゝ徴集する百般の税目は都て之を廢するを得べく朝野共に之が爲めに蒙むる所の利益は計り知る可からず又徒に土地を所有するも利益を得ることなきが故に今日の如く一人にして廣大なる地所を私有し數百千の小作人を虐使して奴隸の如く禽獸の如くする不人情の地主も其跡を斷ち次第に貧富懸隔の弊風を退減して小民の衣食を安くするに足る可し又農業上の利益を云へば土地を所有する者が之を耕さずして其儘になし置くときは實際非常の損亡となるを以て是非とも自から耕作に從事して出來る丈け多くの收穫を見るの工風をなさゞる可からず即ち之に依て大に農業の進歩を促がし地味の改良を致すの效ある可きこと疑ふ可からず地租を重くするの利益あること斯の如くにして且道理上これを重くせざる可からざる次第も前に論じたる如くなれば吾々は我小民休養の爲め一日も速に我宿論の實行せられて土地私有の弊害を除くの時節到來せんことを希望する者なり
前の一節は我輩が輓近の西洋經濟論に就き諸書を抄譯して論旨の大要を示したるものなり西洋諸國の田制と日本の田制とは自から同じからざるもの多く彼の英國の如き國中の耕地は大抵皆少數の大地主に占領せられ其地主の下には手代手先きの者ありて小作人の膏血を絞り小民は終年勞働して尚ほ飢寒を免かれず且文明の法律は常に私有の權を重んずるが故に地主等が小作人に對して如何なる無情を働くも苟も法の明文に背かざる限りは之を禁ずるものなく事態ますます切迫して殆んど見るに忍びざるの慘状に立至りしより漸く識者の注意する所と爲りて右等の經濟論も世に現はれたることならん其立論の眼目として一切の私有地を政府に沒入し又は地租を重くして小作料の利益を空ふせんとするが如き遽に之を聞けば過激なるに似たれども彼の國々に於て土地兼併の弊害たるいよいよ其事情を詳にすればいよいよ小民の苦痛に堪へざるものあるが故に救濟の一法として斯くも敢斷なる方策を立たることなる可し東洋國人の考には政府の收歛を以て無上の害惡と認め物論唯この一方に向ふの常なれども西洋諸國の大地主は一種特別のものにして其收歛法の酷なること政府の比に非ず暴政府の政は粗暴にして時としては其收歛に遺漏ありと雖も地主の收歛は緻密にして其状恰も人をして窒塞せしむるものゝ如し故に我日本人の如きは古來唯政府の收斂を知るのみにして未だ地主の收歛に遭はざる者と云ふ可し東西相比較して小民の幸不幸同日の論に非ざるなり竊に案するに古來我國の習慣に於て全國の土地は官有の姿を成し人民は政府の地面を借用して耕すものに異ならず耕地の所有權こそ慥なれども田地に冠するに御の字を以てして御田地と云ひ田租を名けて年貢と云ふが如き其性質私有に非ざるを證す可し既に私有に非ざれば政府の之に干渉するも亦自然の勢にして政府の法を以て租税を輕重するのみならず田地の所有權に就ても人民の意の如くならざるもの多し殊に徳川政府の政策は常に貧富の懸隔を防くの主義にして三百藩亦この旨に從ひ勉めて小民を保護して田地の賣買を自由ならしめず小民に至るまでも自家所有の地を耕さしめんとの趣意にして所謂五反百姓の名も是等の事情に生じたることならん或る藩にては明に法を定めて凡そ農家にして何町歩以上の田地を所有すること相成らずと禁じたる事例もあり之を要するに政府は田地を以て農民の至寶と認め世々子孫に傳へて動かす可らざるものなりとの趣意なるが故に農家に於ても自然に其習慣を成し例へば家に不幸を重ねて貧窮に陷り家屋を失ひ衣服諸道具を賣り盡しても田地丈けは容易に手放すことなく殆んど死力を致して之を守る其趣は封建の貧乏武士が飢寒に迫りても腰間の雙刀をば失はざるものゝ如し小民に於て之を守ることいよいよ堅固なれば富豪の之を兼併するも亦容易ならざるを知る可し又封建の時代に偶然にも田地の兼併を妨げたる一種の事情は田租の輕からざること即是れなり當時は日本國中に殆んど商税なるものなく中央の幕府を始めとして諸藩共に士族の世祿并に諸政費は都て田地の年貢より出るの法にして凡そ田地に生じたる者は平均その十分の四乃至半を政府に納めしむるの慣行なりしが故に(徳川政府直轄の年貢は十分の三半を標準にして三斗五升俵の制を用ひ收納の最も寛大なるものなり諸藩とても必ずしも田實の半を取立るには非ざれども道普請池普請等種々樣々の土木工事に夫役を申付けられ或は藩吏巡回の時には人足を出し賄を供する等夫れ是れを精算するときは十分の四にも或は五以上にも當ることにして(殊に小藩地は最も酷なるを常とす)富豪者が斯る重税の地面を所有して他人に貸渡し其小作料の内より年貢を納るは利益の厚きものに非ざるのみか水旱の天災に逢ふときは全く所得を空ふすることさへあれば地面は大丈夫なる家産と知りながらも計算上の得失を勘考して買收を思止まる者多し其事實を示さんに舊幕府の時代に日本の西南諸國と東北諸國とを比較するに西南は人口稠密にして隨て田地にも繩延なるもの少なく大名の祿高十萬石と云へば凡そ其本高に超るものなき其反對に東北の大名には内高又は隱高と稱するもの多く表面は五萬石と云ひながら内實十萬餘石の領地もありて其領地の豐なるに從ひ年貢も自から寛大なれども石高打詰の藩地に於ては然るを得ず又幕府の直轄即ち天領は概して年貢の割合低くして諸藩地即ち私領の比に非ず又天領と私領との比較を外にし大藩と小藩との間にも自から其割合の差ありて藩のいよいよ小なるに從ひ年貢法も愈々酷にして緻密を致し其田地に負擔の重きは一般の通例なるが如し九州の某小藩にては米の年貢の外に麥を取り尚ほ其麥を搗て納めしめたるの奇例あり大藩の夢にも知らざる所なり以て其大概の相違を見る可し扨て右の如く日本の西南と東北と又天領と私領と又大藩と小藩とを比較して其年貢に輕重の相違は爭ふ可らざるの事實にてありながら顧みて小民の生活如何を問へば西南に窮民多きに非ず、天領の小農豐なるに非ず、又小藩の小民獨り飢るに非ず、平等一樣小百姓は小百姓にして曾て貧富苦樂の相違なかりしこそ不思議のやうなれども一歩を進めて經濟社會の運動を視察するときは大に發明する所のものある可し年貢の安きは豪農を生ずるの媒介にして田舍にて苟も資産に餘あるものが其資金の用法を案ずるに年貢さへ安ければ田地を子孫に遺すほど安全なるものなきを知り次第次第に之を買收して小農は中農と爲り中農は大農と爲り名は農民にして自から地を耕することなく夥多の小作人を支配して所謂素封の一大家を成す可し一地方に素封の大農を生ずれば其地方の小民は即ち小作人にして政府に納る年貢の輕重如何に論なく耕地の廣狹と人口の多少と正しく需要供給の原則に從て小作料を促さるゝが故に年貢の輕き恩澤は唯地主を利するのみにして小民は曾て之に霑ふを得ず即ち舊幕府の時代に小農の如きは東北諸國を第一とし其他は天領に多く大藩地に多くして西南の小中藩は其領内に殆んど大農を見ざりし所以なる可し大魚は小池に住まず小藩地に富豪なしなど漠然たる俚言もありしなれども其實は小藩の年貢法甚だ密にして藩政と小農と密接し絞る可きものは絞り取りて其間に地主を容る可き餘地を遺さゞりしが故のみ然り而して此種の小農と彼の東北諸國并に天領等の小農と相比較して衣食の有樣如何を見れば毫も異なる所あることなし兇年に東北に饑民多ければ西南の民も又饑ゆ、然かのみならず饑饉の手當などは小藩政の方却て能く行き屆きて平生年貢の寛なりし地方民に難澁する者多かりしとの奇談さへなきに非ず之を要するに小農の身と爲りては政府に重き年貢を納るも地主に重き小作料を取らるるゝも其實は同樣にして年貢の安きは唯土地兼併の勢を助るものと知る可し
王政維新の初に文明開化の風潮大に流行して一切萬事西洋の流儀に從はんとする其時に當り何人の發意にや西洋諸國は商を以て國を立て日本は農を以て國を立つ、農民より年貢を取立てゝ政費に充るが如きは田舍風にして與に文明の事を語るに足らず況んや米と名くる物品を納めしむるなどに至りては殆んど未開國の蠻風とも云ふ可き陋習なれば之を一新せざる可らずと云ひ又一方には三百の舊藩各々納税の習慣を殊にしたるものを廢して一政府に合したることなれば其繁雜に堪へざるの事情もあり是に於てか新政府に地租改正の議を生じて匆々之に着手し大に田租を輕減して米納を金納に改め地券を發行して土地の所有權を固くしたるのみならす古來國有の性質を備へたる一切の田畑山林を人民の私有に改め其私有地の賣買を自由にし便利にしたるは日本開闢以來の一大改革にして其影響する所の容易ならざるは推して知る可し之が爲めには種々樣々の利益も少なからず又弊害も少なからざる中に就て爰に其弊害の甚だしき者を擧れば地券の賣買質入を便利にしたるが爲め小民の田地を失ふこと容易にして隨て富豪が之を兼併するの法も亦容易なるの一事なり徳川の時代にても敢て賣買を禁じたるに非ずと雖も唯その手數の面倒なるが爲めに賣らんとする者も買はんとする者も格別の要用の外は先づ之を見合にするの風なりしに地租改正以來田地の性質はいよいよ私有と定まりて手元に所有する地券は尋常一樣の株券等に異ならず其所有主が不圖これを金にせんと思へば質入なり賣渡なり即時に辨するが故に金の必要に迫るは毎度のことにして地面は大切なりと知りながらも恰も惡魔に誘はるゝが如く何時しか之を手放すの事情なきに非ず又これを買はんとする者に於ても在昔の如く何年間は必ず質入にして何年の後に至りて始めて流地と爲る可しなど云ふ窮窟なる法律とてはなく唯代金をさへ渡せば即日より公然たる地主と爲る可く又之を買受けたる上にて利益の割合を計算すれば改正後に小作料を引下たるにもあらずして一方の政府に拂ふ可き地租は大に輕減して雙露盤に當るもの多きが故に雙方の都合の爲めに相談も甚だ手輕に纏まりて自然に田地賣買の勢を助け年々歳々私有地を失ふ者の數を増して富豪兼併の風を催ほし例へば從前は各都邑の商家にて耕地所有は甚だ稀なりしものが近年に至りては商人等も漸く其利益を悟りて之を買ふ者少なからずと云ふ經濟自然の運動にして免かる可らざる所のものなり世に所謂斯民休養論者の流は頻りに民事を憂慮し農民日に困窮して私有地を失ふ者多し例へば府縣會議員を選擧するに地租五圓以上を納る者の數次第に減少するは其困窮の徴なりとて慨嘆する者なきに非ず、如何にも論者の所見の如く各地方に納税者の數を減ずるは私有地を失ふ者多きが故にして全く本人が困窮したるに相違なしと雖も其これを失ふや田地を荒らして無くしたるに非ず之を賣て代金に易へたるものなり而して其代金を拂ふたる者は次第に私有地を廣くして隨て納税の高を増し前年五圓以上を納めたるものも漸く十圓以上を納ることゝ爲り又進んで五十圓百圓以上にも達す可ければ以前二十人に課したるものを今は一人にて納め二十の財産を一に併せたるに過ぎざるのみ又その曾て五圓以上を納めたる者が何故に斯くも困窮して地面を賣りたるやと尋るに田租の苛重なるが爲めなりとは何分にも陳ぶるに辭なきが如し如何となれば斯民や徳川封建時代の民にして其時代より五反の田畑を所有して四公六民乃至五公五民の重き年貢を納め尚ほ所有權を維持して明治年間に至り偶然に地租改正の僥倖に遭ふて大に田租を減しられながら今は却て以前よりも困窮するの理由あらざればなり左れば其困窮は先年政府が誤て紙幣を濫發して一時穀物の騰貴を致し隨て田地の價をも引上げて假りに農家の景氣を催したるとき自然に衣食住の度を高めて得々たる中に又もや財政の當局者が失策を再びして今度は紙幣急縮の爲めに天下の經濟を紊りたるが故なり一度び高めたる生計は容易に舊に復すること能はざる其際に物價は頻りに下落して都鄙一般の不景氣と爲り農民は耕作の外に農間稼の所得なき尚ほ其上にも地方政の繁文は日に繁雜にして安んずるを得ず失望と狼狽との餘りに遂に大切なる田地をも賣放すの場合に立至りしことなれば所謂五反百姓が其五反の私有地を失ふたるは正しく五反に負擔する租税の重きが故に非ず實は數年の間政府の財政を誤りたる其失策に原因することにして且これを賣放すに容易なるは前に云へる如く地租改正以來賣買の法も手輕にして又買方に於ては納税の負擔輕くして雙露盤上の利益あるが爲めに悦んで之を引受ればなり故に今日にして農民の困窺を救はんとならば唯速に財政失策の結果を醫して又繁文の宿弊を除く可きのみ地租を輕減して民の疾苦を救はんとするが如き救濟の方角を誤るのみならず多年の後の成跡を考れば之を輕減したるが爲めに土地兼併の大弊害を生じ今日救濟と思ひし其政略は却て民を苦しむるの媒介と爲る可し之を救はんとして却て之を害す智者の事に非ざるなり
前條に記したる西洋經濟論の大意を一讀し之を我徳川時代より維新後に至るまでの事情に照して地租と小作地との關係は如何なるものにてあるやを熟考したらば讀者に於ても必ず大に發明する所ある可し即ち富豪が土地を兼併して小作人を使役するの利不利は其土地に課せらるゝ租税の輕重に從ひ税の輕き地方には必ず素封の大農を生ずるの事實を見る可し我輩は固より西洋の經濟論に從ひ日本國にも更に地租を重くして小作料の實を沒入し以て大農を苦しめて小民を利せんとするが如き急劇なる政策を主張するに非ず又今の日本の實際に於ても斯る劇策を施すの要用なしと雖も畢竟するに地租の輕きは大農の利益にして小民の與る所に非ざるのみか却て兼併の勢を助けて行末は却て小作人の不利たる可しとの理由を明にせんが爲め特に彼の經濟論を引用したるのみ以上の論旨にして果して違ふことなくんば我輩は近來我政治社會に行はるゝ地租論に就て不服を唱る者なり其論に二種あり一を地價修正と云ひ一を地租輕減と云ふ先づ地價修正論より論せんに日本の地租は地價を標準にして税の割合を定めたるものなるに全國の耕地を通覽すれば其地價甚だ不同にして隨て地租に不公平あるが故に地價の高きものは之を下げ低きものは之を上げて平等ならしむ可しと云ひ又或は其高きものゝみを低くして其既に低きものは從前のまゝに差置かんと云ふもあり即ち甲は平均論にして乙は其平均の方便として單に一方の地租を低くせんとするものなり假りに今地租輕減の利害得失を問はずして兎に角に全國耕地の租税を平均して偏重偏輕の沙汰なからしめんとは一應尤もなるやうに聞ゆれども實際の着手に臨みて其方法を如何す可きや我輩は唯その難きを知るのみ各府縣に行はるゝ地租の割合を表に作りて一紙面に記し之を机上に點檢すれば決して公平なるものに非ず薄租に有名なる舊小倉縣(今の大分縣の一部)山口縣又は舊水澤縣(凡そ今の宮城縣)等の割合を以て大阪府又は三重縣等の如き重税の地方に比較したらば一目して不公平の實を見る可しと雖も是れは我輩が曾て云へる如く二百十二度の沸湯と三十二度の氷とを并べて寒温を評するに異ならず何人の感觸にも識別すること易けれども沸湯點と氷點との間には尚ほ百八十度の寒温ありて百度は九十度よりも熱くして九十度は八十度よりも熱し地租不公平の度數は各縣に異なり各郡各村に異なり甚だしきは一村内に隣地相接して奇妙なる差等さへある程の次第なれば農民の思ひ思ひに其ふまゝを云はしめて又傍よりも子細に之を吟味したらば啻に百八十度に止まらずして千八百段の差を現はし此地租は地味に比して高きこと五分なりと云へば其れは三分なりと云ひ或は一分のものもあり五厘のものもあり一厘一毛遂に際限ある可らず故に今二百十二度の地租を重しとして百五十度に下さんとするときは既に百五十度なりしものは其割合に從て百度に下らんと云ひ之を聽せば他の百度のものは五十度たらんことを求め次第に其云ふがまゝに從ふ間に曩きの百五十度に下されたるものも今は他の比較を見て更に自から度數の高きを感じ更に又引げられんことを主張して到底歸する所なきに至る可きは勢の最も睹易きものなり然らば則ち一部の修正は事實に行はれ難しとして思ひ止まり今度は大擧して全國の地價を一時に修正せんか即ち地租改正を再びすることにして此事決して容易に行はる可らず單に費用の一點より云ふも前の改正には凡そ七千萬圓を費して農民は一年に二度の年貢を納めたるよりも尚ほ重きを負擔したることなれば再度の改正も凡そ同樣にして前年に比して物價の異同もあれば或は七千萬の金にて足らざることもあらん此大金は永遠の損亡にして假りに之を農民の負債として見れば田舍の金利年一割として改正後は毎年七百萬圓を拂ふの割合を見る可し地祖改正し得て妙なれども其改正の報ひとして未來永久に至るまで年々歳々七百萬圓を拂出すとは一種新奇の災難にして甚だ妙ならざるが如し我輩は天下の農民と共に斯る災難をば避けんと欲する者なり又前度の改正を行ふたるときは維新匆々法律も不完全にして專制の勢力圓滿なりし世の中なれば大抵の處までは人民の苦情を上げずして云はゞ民意を壓制して事を成したる姿なれども舊慣漸く廢して新法正に行はれ些細の事にまでも法論を喋々して日本國中の人民は恰も法學生徒の如くなる今日に當り一擧して全國の耕地を評價せんとして能く民意を滿足せしむるの手段ある可きや否や幾百萬の地主は幾百萬の自利心を逞ふして勝手次第に苦情を申立て説諭も聽かず嚴命も恐れず強ひて之を壓制せんとすれば則ち法律に依頼して出訴に及び地租改正官吏の反則叉は地方官の不正など稱して不服を唱へ果ては中央政府の大臣を相手取りて曲直を法延に爭はんとし改正未だ半ならずして國中は唯訴訟の沙汰に忙しきの寄談ある可きのみ即ち時勢の變選民情の異同に由りて然るものなれば二十年前の先例を見て再度の改正も亦斯の如くならんと思ふは大なる誤なりと云ふ可し然かのみならず假令ひ百難を犯して事を了りたればとて之に由りて一切の不公平を除く可しと思ふが如きは眞の空想にして迚も實效は期し難し初度の改正も舊幕府時代の地租法を不公平なりとして施行したるものなれども改正の不公平を見れば殆んど舊時に異ならず初度にして斯の如くなれば再度も亦斯の如くならざる得ず少しく經世の心あらん者は多辯を俟たずして自から了解する所のものあるべし
地租論の第二は單に地租の割合を減少することにして例へば現行の税率地價百分の二半なるものを百分の二にせんとするが如き之を地租輕減論と云ふ抑も此地租輕減論の由來する所を尋るに前年政府が地租を改正して大に年貢を減じたるとき尚ほ是れにても不滿足なりと思ひしにや元來政府の意は地價百分の一にまで減する見込なり云々と(地租改正條例)漠然たることを公言したる其言を抵當にして地租輕減は政府の義務にして之を請求するは人民の權利なりと唱へ以て民間の政談者をして口實を得せしめたることなれども前節に云へる如く先年の地租改正は文明流行の狂熱中に斷行したることにして之を改正して百年の得失如何を考へたるに非ず、國有の性質を具へたる土地を改めて人民の私有に歸するの大事を思ふたるに非ず、地租を低くして其利益は到底何者に歸す可きやを究めたるに非ず、其實は當時在朝の儒流書生輩が少しく飜譯の書を讀み又西津人の説など聞き宿昔斯民休養の儒魂に投するに西洋商國の新説を以てし一時心醉の餘りに匆々議定して匆々着手したる政策にして今日より之を思へば其策の完全ならざるのみか寧ろ明治政府の一大失策として計ふ可き程のものなれば其改正の本體に於て既に非難を免かれず況んや當時改正と共に政府の人が公示したる地價百分の一にまで云々の一言に於てをや今日に於て證とするに足らざるものなり國家永遠の利害に關するときは既發現行の法律も之を改るに躊躇す可らず然るを彼の一時狂熱中に發したる條例あればとて其言を抵當に取りて論爭の根據にせんとするが如き我輩その可なるを知らず之を喩へば醉狂者老耄者の遺言書を證據にして爭ふ可らざるの不理窟を爭はんとするものに似たりと云ふも或は過言に非ざる可し左れば以上の論據は取るに足らずとして更に事實に就て論せんに輕減論者は今の地租重くして農民困窮すと云ふと雖も前節にも云へる如く農民果して困窮ならば其困窮は地租の爲めに非ずして他に樣々の原因ありて然るものなれば之を吟味せざる可らず舊幕府の時代に公領私領を平均して四公六民乃至五公五民即ち四五割の年貢を納めたるものが今日の割合を見れば輕減もまた甚だし去年米作の統計に全國の收穫四千四百餘萬石とある其米價を一石六圓とすれば二億六千四百萬圓なり此内より二十四年度の地租三千八百七十七萬圓を拂へば僅に一割五分に足らず又これに地租の三分一以内なる地方税を加ふれば五千百七十萬圓と爲れども米の代價二億六千四百萬圓に對すれば尚ほ二割以内に在り或は地方税の外に樣々の名義を以て間接に土地に課せらるゝものもあらんなれども是れは地方政繁文の弊に生ずることなれば唯その弊を除く可きのみ如何なる辭柄を作らんとするも現今の農税は之を幕府時代に比して半にも足らざるものなるに農民困窮など云ふ漠然たる机上の議論を以て正租を輕減せんとするが如きは我輩の服せざる所なり如何となれば二十餘年前に四五貫目を負擔して之に堪へたる者が今日僅に一貫五百目乃至二貫目の重きに堪ざるの理由ある可らざればなり若しもいよいよ之に堪へずとあれば其堪へざるは元來の荷物の重きに非ずして小附の多きか又は他に身體を煩はすものあるが故なり一説に所得税を納るは歳入三百圓以上に限り以下は之を免かれて國費を負擔することなし然るに農民が耕地より三十圓の利を得ても納税の義務あるは公平ならずと云ふ者あり自から説として聞く可きが如くなれども是れは古來我全國の土地に國有の性質あるに由來したることにして他の工商の例を以て論ず可らず工商は單に自身の手足と腦力とを以て働くのみなれども農民は地面と名くる天與の生産力を利用して之に自身の働を加ふるまでのことなるが故に往古の專制君主が此天與の生産力を私有して勝手次第に與奪したるものを後世に至りて國有共同のものと爲し分割して一個人の所有權を固くしたれども尚ほ今日も國有の意味を以て多少の租税を拂はしむることなり啻に理論上に於て然るのみならず今の實際に於て地主は此の生産力を所有する者にして其所有權即ち耕地を人に貸せば自から手足を勞せずして所得あるに非ずや斯くまでに利益ある土地なれば之に税を課するも決して無理と云ふ可らず農民その人に課するの税に非ずして土地と名くる天與の生産力に課するの税として見る可きのみ既に人に課するの税に非ずとすれば彼の大地主が地租を納めたる上に尚ほ所得税を拂ふは二重税を取らるゝに等しなどゝて苦情を云ふ者あるよしなれども甲は土地の税にして乙は人に對しての税なり毫も怪しむに足らざるのみならず經濟社會の實際に於て土地賣買の價は納税の輕重を計算して然る後に定まりたるものなれば土地を買ふて之を所有するの利益は公債證書株券等を所有し又は銀行に金を預けて利子を取るに異ならず其撰擇は唯主人の意に任ずるのみ若しも土地を所有して二重税を拂ふに苦情あらば其土地を賣却して他に資金の用法を求む可し二重税を免かるゝこと甚だ昜し舊來の地主は地租改正の爲めに減租の僥倖に遭ひ爾來新に買入れたる者は納税を計算して代價を拂ふたることなれば今更苦情を訴へんとするも我輩は其根據なきに苦しむ者なり
凡そ一國政府の税源は其國々の歴史に由來して習慣を成すもの多し我日本の地祖の如き即ち其一例にして百千年の古より今に至るまで農民が田地を所有して納税の負擔を怪しむ者なきは習慣の固きものにして收税の手數も容易なる所以なり支那にては食鹽に重税を課するよし日本人の考に鹽に税とは意外に見ゆれども是れも習慣にして支那人は平氣なる可し畢竟習慣に由來して民情の安不安もあることなれば日本人民の心に安んじて毫も怪しまざる地租の事を今日に喋々するは是れぞ所謂平地に波を起して税源を擾攪する者と云ふ可し且文明の國を維持する爲めに次第に國費を増すも自然の勢なるが故に今後地租を除くの外に次第に諸税を増加するときは今の地租は其まゝにして他の比較上に大に輕減せられたるの事實を見るも遠きに非ざる可し我輩固より無情の鐵腸に非ず貧農の貧苦を見て憐まざるに非ずと雖も唯輕減論者の見る所近くして憂る所淺きに感服せざるのみ論者が地租を輕減せんとする其理由を聞けば斯民を休養するが爲めなりと云ふ甚だ妙なりと雖も斯民とは農家の如何なる種族を指すか先づ其目的を定めざる可らず地主が地租を輕減せられたるが爲めに所得を増すこともあらんか、即ち公債證書を所有する者が俄に利子の割合を引上げられて僥倖するに異ならず詰り富めるに續ぐの恩惠にこそあれば論者の目的は富豪大地主に私して之を休養するの意にはあらざる可し然らば則ち地租を輕くすれば隨て小作料を輕くして小民の利益たる可しと信ずるか、思慮の足らざるものと云ふ可し地主が人に田地を貸して小作料を定むる其割合は金主が金を貸して利子の割合を定むるに異ならず其高低は唯これを借用する者の競爭に在るのみ今の地主は此競爭の極度を度にして今の小作料を命し之より高くすれば借地する者なきを知て正に其點に止まることなれば假りに地租輕減を逆にして之を増加することもありしならんには地主は其増加の割合に從て能く小作料を高くす可きや否や決して實際に行はる可らず地租の高下は地主と小作人との關係を左右するものに非ず現在の小作料は競爭の結果に生じたるものなるが故に地租の増加云々を名にして之を高くせんとするときは小作人は借地を返却して耕すことなき其事情は金主が家政不如意など稱して法外なる高利を貪らんとするも之を借るものなきが如くなればなり地租増加にして果して小作料を高くするに足らずとあれば其輕減も亦これを低くするに足らざるや明なり何程に之を輕減しても借地人に競爭のあらん限りは地主は其競爭の緩急を見て小作料を命するのみ商品の相場、金利の割合等都て競爭の原則に由らざるはなし獨り小作料のみをして此原則外に在らしめんとするが如き苟も經濟家の口より發す可き言に非ず迂濶も亦甚しと云ふ可し左れば地租輕減は他人に地面を貸すが如き大地主の爲めにせんとするの意に非ず又これを實施して小作人の利益たる可きにも非ざれば斯民休卷の斯民とは大地主と小作人とを除き其中間に在る自作農民のことなりと云ふか斯民の區域漸く縮少して窮窟なりと雖も論者は其中間の一部に厚くせんとして全國の地租を輕くし其本心にもなき大地主をして富めるに續ぐの僥儔を得せしめ却て無數の小作人をして失望せしめんとするか、我輩の斷じて同意せざる所なれども姑く之を擱き爰に最も恐るべきは農税を輕減したるが爲めに彼の中等の自作人も自然に私有地を失ふの勢に立至る可きの一事なり凡そ商賣社會の事情を視察するに需要供給相對して供給の潤澤なるが爲めに需要者を生ずるの例なきに非ずと雖も普通の場合に於ては需用に應して供給の道を開くを常とす即ち俗に云へば買人ある爲めに賣物も市に出ることなり扨今日百姓の田地を賣買の物として其需要供給の事情如何を問へば前節に云へる如く地租改良以來土地は全く私有の姿を成して隨て賣買の法も亦昜く之に加ふるに舊時に比すれば納税の負擔著しく減少して地主の所得薄からざるが故に各地方の豪農富商は其資金の用法を求め漸く地面に着眼して近年は漸く賣買の沙汰を催ほす其折柄又もや一層の地租輕減に逢ふこともあらば買收の氣焔は一層の勢を増さゞるを得ず或は云く地租の輕減は所謂五反百姓の利益にして之を減ずれば自から其百姓の所得を厚ふして家を富ます可きが故に所有賣却の念も自から斷絶す可しなどの説あれども畢竟我農情を知らざるものゝ考なり元來五反百姓の身分は小作百姓に比して幾分か上等なりと雖も決して生計の豐なるものに非ず夫婦と老人子供を并せて共に働き僅に飢寒を免かるゝのみにして一年三百六十日の間に快く酒を飮み魚肉を食ふことさへ稀にして農間の稼にてもあらざれば曾て口腹の慾を滿足したることなきが故に苟も錢を得るの道あれば永遠の利害を思ふに遑あらず兎に角に其錢を以て一時の快樂を買はんとするか又は差迫りたる急を救はんとするは人情に免かれざる所なり然るに爰に地租輕減の僥倖を得て例へば地價百圓に付き五十錢を減ぜられ之を減ぜられたるが爲めに其地面を賣るに十圓乃至十五圓の價を増し然かも買人は現金の耳を揃へて即時に之を渡す可しと云へば即ち先づ需要を生じて供給これに應ずるの道理にして知らず識らず惡魔に引入れられて祖先傳來の重寶に告別することなきを得ず先年の地租改正以來の事實に於ても既に然りとすれば之を爭ふ可らず今後地租を減ずることいよいよ速なれば兼併の勢も亦いよいよ劇しく遂に無税に至れば日本國中殆んど自作人なきの慘状も計る可らず休養論者も是に至りて全く目的を失ふたる者と云ふ可し
地租輕減して兼併の勢を増し自作の百姓漸く減じて小作人と爲りたる處にて國民の幸不幸如何を問へば我輩は之を評して經濟の慘状と云はざるを得ず國中幾多の地主は腦力を勞するに非ず手足を役するに非ず天與の生産力(即ち土地)を人に貸して獨り其利益を專にし尚ほ今後人口の次第に増して次第に土地の狹きを感ずるに至れば商賣社會に流通資本の乏しきが爲めに金利を引上るの道理に等しく小作料も次第にせり上げて次第に騰貴せざるを得ず農民何に由りて生を保つ可きや之を思へば唯寒心するのみ在昔封建の大名は耕地に重税を課して殆んど農家米作の利を空ふし就中彼の小藩の如きは細に取立てゝ絞り盡したるが如くなれども其絞らるゝ爲めに不利なるものは地主の一種に限るのみ小作人は苛税なればとて特に小作料を高くせらるゝに非ず公領又は大藩地の小作人も小藩地の小作人も其幸不幸は同樣にして唯小藩地には大地主の發達を見ざるのみ殊に土地兼併の弊を防ぐは徳川政府の大主義にして諸藩みな之に傚ひ年貢の取立苛刻なる中にも所謂仁政なるものを施し陰に陽に小地主を保護して自作を勸めたるは小藩ながらも藩廳と名くる一政府の事なりしかども今や漸く地租を輕くすれば土地は漸く商賣品の姿に變じ轉々賣買して其歸する所は豪農富商の素封を成すのみ既に素封家の私有と爲りて小作人を使役するに至れば地主の眼中には唯利あるのみにして又仁義を云はず其地方に現在する耕地の廣狹と農民の多少とに從ひ正しく需要供給の示す所を以て小作料を定め事情の許す限りに高きを命ずる其有樣は金主が金融の緩急に從て利子を上下するの情に異ならず即ち俗に云ふ黒人の雙露盤にして拔目なきものなり封建諸藩の年貢苛しとは申しながら雙露盤の上には尚ほ素人にして多少の遺漏あれども地主の經濟法は一家の私を目的として左右を顧みず其緻密なること水をも漏らさぬ有樣にして小作人の呼吸塞迫せざらんと欲するも得べからず小人窮すれば茲に濫す、經濟社會の慘状思ひ見る可し事柄は異なれども近年田舍にて田地を買はんとする者は直に之を買はずして先づ其持主の身元不如意なる者を撰び需に應じて地面抵當に金を貸付け返濟の期限に至りて拂はざれば利足を元金に結んで證文を書替へ幾回の書替へに利倍増長して終に抵當品を引取るの手段さへなきに非ずと云ふ此法に從へば名は相當の直段なれども其實は五年前の元金を一倍に膨脹せしめたるものなれば持主の手元は所有地を半價に賣拂ふたるに異ならず地面を買ふに付けても既に斯の如し此種の地主が小作人に接するの緩急如何は讀者の推量して自から發明する所なる可し
或は云ふ日本の地主は西洋諸國の地主に異なり地主と小作人との間には自から一種の徳義を存して西洋流の殘忍刻薄なきが故に特に心配するに及ばずとの説あり我輩も固より此事情を知らざるに非ず東北諸國又は其他に於ても大地主と小作人との關係は主從の如く親子の如く地主も世襲なれば小作人も亦借地の世襲にして幾十百年來相替ることなく地主の催促をも待たず定めの小作料を納めて曾て僞ることなく耕作の外にも主家の急に走り其家事を助けて律儀一偏なる其代りに地主も亦小作人に交るに他人を以てせず常に其利害を保護して生活の安きを得せしめんとし、飢れば食を與へ、病めば醫藥を給し冠婚葬祭子弟教育の世話より尚ほ進んで身持宜しからざる者に異見を加へ農業出精の者に襃美を與ふる等その取扱の濃なること恰も一家人に異ならずして雙方の間に殆んど利を爭ふの痕跡をも見ず古來百姓が領主に向て一揆を起したることはあれども小作人が地主に亂暴を仕向けたるの例は甚だ稀なり盖し我世教の然らしむる所にして一種特別の美風なれども爰に一考を要するは今の我文明の有樣にして能く此美風をして永遠に持續せしむるを得べきや否やの問題なり文明開化は法律を明にして法律に重きを置き人間萬事次第に情を離れて次第に道理に進み理窟の喧しきと共に不理窟も亦能く行はれんとするの時勢に當りて彼の極樂世界とも稱す可き地主と小作人との關係を維持するは到底望む可き所に非ざるがし維新以前僅に廿餘年故老の尚ほ存する者あればこそ未だ風波を見ざれども小作人の悴も小學校を卒業すれば自由壓制など云ふ文字の意味を解して小理窟を陳べ生噛の法律に依頼して地主に向はんとすれば地主も亦能く流行の法律論を心得、法律と法律と相接して互に爭ふのみならず地主の心には一層の不愉快を感じ數代恩顧の小民等が祖先以來の事實を忘れて恩に報ゆるに仇を以てせんとは不埒至極の者共なり彼等が法理に訴へて來るこそ面白けれ向後は此方に於ても法理を以て之を御せんとて百年の情交も一朝に破れて歸する所は小民の膏血を絞り盡して遺す所なきに至る可きのみ我輩が數十年の後を想像すばれ從來の地主と小作人との間柄さへ漸く將さに破れんとする其最中に今後新に土地を買ふて新に地主たる者が小作人を取扱ふに徳義を以てせんとは固より架空の空論にして取るに足らず世界萬國、地租を輕くするか又は全く無税にして土地兼併の行はれざるはなし、之を兼併すると同時に私有保護の法律を明にして少民の困弊せざるはなし、人間社會普通の事相にして爭ふ可らざるものなるに獨り我日本國のみをして世界の通例以外に在らしめ文明の法律を行ひながら地租を輕減して兼併の弊なかる可しと信ずるは人事の勢を辨ぜざるものと云ふ可きのみ
前條縷々開陳せし如く地價修正は到底實際に行はる可らず強ひて之を行はんとすれば非常の人力を費し非常の金を失ひ國家の經濟に於て所失所得相償はざるのみか其費し失ふたる所のものは永世不還の國損たる可し地租輕減論は其根據とする所固より薄弱にして尚ほ其上にも斯民を休養するに足らず唯徒に土地兼併の速力を増し遂には却て斯民休養の目的を逆に達して小民の不利たる可きのみ又國家經營の點より見るも文明の國事日に多端にして諸税率は次第に昇ぼることあるも降ることなき今の時勢に百千年來國民の習慣を成して曾て怪しまざる國庫第一の税源を動さんとするが如き斷して經世家の事にあらず然かのみならず年貢の割合は廢藩置縣に際し諸藩より中央政府へ經濟を引渡すとき既に幾分を用捨したる向きもあり尚ほ之に續くに地租改正の寛典を以てして凡そ日本國の歴史に田租の輕きこと今の如くなるは未だ曾て其例を見ず農民の身として一毫の不平もあるべからざる今日に當り何を苦んで更にこれを輕減せんと云ふか殆んど物の數を辨へずして飽くことを知らざるものと云ふ可し然るに斯る睹易き數を睹ずして近來世間に輕減論を唱ふるもの多きは畢竟政黨の始まりしより以來政客輩が國民多數の歡心を買はんが爲め心の底に不條理なり、空論なり、迚も實際に行はれざることなりとは知りながらも之を餌にして黨勢を張らんとするの計畫より外ならず即ち全國の農家にして果して地租の輕減もあらんかと眞面目に之を待ち設る輩は正に政客の計略中に在る者と知る可し唯氣の毒なりと云ふの外なし如何となれば滔々たる政海中の愚物はイザ知らず苟も政治社會に運動して天下の形勢を視察し、經濟の利害得失を辨じて一人前の政客とも稱す可き人物なれば唯目下言論に輕減を喋々するのみにして後日の實際に行はんとするの念は萬々ある可らざればなり之を喩へば徳川政府の末年に攘夷論を唱へて天下の人心を傾け討幕の事成ると同時に攘夷の事も亦止みたるが如し當時世の中に眞實攘夷の行はれんことを待ち設けたる者は必ず大に失望したることならん元來政治家の運動も商賣同樣にして隨分掛引の多きことなれば時として不正直の跡あるは敢て咎む可きに非ざれども左りとて地租の事は彼の開國鎖國の議論などゝ違ひ直接に人民の利害に關し事の成敗に由りて失望する者も多く又實際に損亡する者もある可ければ我輩は之を傍觀して默止するに忍びず輕減論の未だ大に進歩せざるに先だち到底其の實際に行はる可らざるの理由を明にし強ひて之を行へば永遠に國民の不利たる所以の情勢を示し以て農家一般の迷を解て益もなき空望を斷絶せしめんと欲する者なり
右の如く論じ來れば地租輕減の議論は全く廢滅に歸し天下の政客が民心を買ふ爲めに唯一の方便として頼み切つたる計略も意外の邊に齟齬して馬脚を露はし其淋しき有樣は手品師が演藝の最中、傍より其祕密を説明する者あるが如く如何にも殺風景にして演藝者の爲めに甚だ氣の毒なるのみならず最初より政治上の計略と思はずして眞面目に盡力し又眞面目に之を頼みたる者は手品云々と聞て大に驚くこともあらんと雖も到底實行の見込なきものは片時も速に斷念するに若かず我輩は單に天下後世の經濟の爲めのみに空論を排するに非ず論者その人の爲めに斷念の利益たるを忠告するものなり如何となれば空論は社會の實際に永續す可らざればなり抑も近來の政客が輕滅論を論ずるは唯人民の欲する所に從ひ巧に其意を迎へたるものにして其立案甚だ妙なれども今や既に實際に行はれ難しと合點したる上は心事に一轉して他に新案を求めざる可らず即是れ政治家の變通にして濟々たる多士の中には必ず新案新策に乏しからざることならんと雖も試に我輩が一案の提出せんに彼の繁文の弊を除くが如きは政論の根據として最も力あるものなる可し明治政府の官途に冗員の多くして冗費の大なるは事實に掩ふ可らず其冗員を養ふの錢は即ち冗費にして尚ほ其上に冗員は唯官途に衣食して安んずる者にあらず銘々に官職の名あれば其名に從て頻りに新工風を運らし頻りに新法新規則を製作し又新事業を起さんとして果ては政治に縁もなき事にまで手を出し無益に政費を費して唯徒に人民の煩累を爲す其事情を喩へて云へば家の要用もなくして數多の裁縫師又は大工左官を雇入れ之に無益の給料を拂ふ上に職人等も無事居食にては體面宜しからざるが爲めに頻りに仕事を工風して家人に不用なる衣裳を作り既に手廣き家作の外に又普請するが如し家計膨脹せざらんと欲するも得べからず即ち冗員は冗費を要し冗費は以て民を煩はすの資と爲る、繁文の由て生ずる事情窺ひ見る可し試に各地方の現状を視察するに山林田野道路橋梁家屋等の制度、戸籍の調査、商業の取締、衞生の世話、教育の差圖收税法、警察法登記法の如き逐一枚擧に遑あらず其手數の面倒にして且心配の多きこと、人民は恰も政府と名くる大家に嫁入して無數の舅姑に事へ又小舅姑に交はるが如し舅姑の心或は深切ならんと雖も嫁の身と爲りては實に辛抱も出來兼る次第なり法を以て民を煩はすの弊極ると云ふ可し所在出身の政客は必ず此事情を目撃して或は直接に身に覺えもある筈なれば大に議論して先づこの繁文を除くの工風こそ今日の急なれ現政府を攻撃するに屈強の政案にして且又實際に之を除き得たらば其功徳は無論、實益も亦遙に地租輕減に優りて政客の民望萬々歳のみならず國家の經濟に失ふ所なくして得る所は大なり我輩は天下の政客と共に此方針に進まんことを欲する者なり
政府の基礎堅固ならざる可らずとは識者の常に冀望する所にして其これを冀望するは何ぞや政府の實力を以て國家百年の利益を維持保護して一時の波瀾に乘ずること勿らしめんが爲めなり殊に立憲の政體に於ては民論動もすれば極端に走りて前後の思慮なきことさへ多きが故に此極端論を鎭靜して國の爲めに守る所を誤るなからんとするには唯政府の力を頼むの外に道ある可らず即ち地租論の如きも實に永遠の長計に關する大事にして今の政黨員の如きは一時その黨勢の消長の爲めに容易に之を論して憚る所なしと雖も苟も政府部内に居て國家の利害を左右するの實權を執り又或は直に之を執らざるも自から内部に勢力ある者は民望を收るに忙しき中にも大事に當りては屹然踏留まりて自家の弱點を示す可らず地價修正と云ひ地租輕減と云ひ何程に其聲を高くするも毫も之に動搖せずして衆論を排し以て政府たるものゝ本分を守る可きは我輩の信じて疑はざる所なり即ち我輩が敢て本論を艸して現政府と共に方向を與にせんと欲する所以なれども更に今後の時勢を想像するときは聊か杞人の憂なきを得ず今日の處にては政府部内に地租論などの沙汰は曾て聞かざる所なれども人の心は存外に弱きものにして時勢の急に迫るときは如何なる變を生ずるやも計る可らず現政府の基礎は極めて堅固なるにもあらずして民論の剌衝は日に劇しきを増し四面に敵を受けて其防禦に忙しく萬般の施政不如意にして次第に窮迫に陷るときは俗に云ふ浮足と爲りて匆々の間に修正輕減策を斷するが如き輕擧なきを期す可らず尚ほ之よりも恐る可きは部内に在る智謀の政客が竊に民論の勢を視察して竊に野心を抱き竊に修正輕減論の利を説て竊に自身の地歩を作らんとする者もあらんかと我輩の杞憂ますます結ぼれて解るを得ず今日の實際には未だ其等の痕跡をも見聞せざれども政黨の一類を外にして經濟社會の上流に近來一種の説を作すものあり其説の根據は本外國人より出でたるものにして固より取るに足らざる數字説なれども恰も目下世間に流行する地租輕減の空論に出逢ふこそ不幸なれ僅々數年の間我國に在留して我田制の歴史を知らず我農家の生活を知らず我耕作法を知らず、我民情を知らざる外國の學者先生が田舍地方を巡回して事情を視察し、田地賣買の價を聞き、種籾の相場を聞き、肥料の直段を聞き、男女日雇の割合を聞き、收穫米の相場を聞き、正租地方税の率を聞き、小作料の高を聞き、唯百姓の云ふがまゝを記して之を統計表などに照らし種々樣々の數字を得たる處にて之を其本國の農作に比較すれば日本の田地の收穫は甚だ薄くして租税は非常に重し、農民は勞して報酬なきのみか一反歩の耕作に付き却て若干の損亡ある程の次第にして斯くては農業の改良など思ひも奇らず唯衰頽を待つのみ云々とて其歸する所は地租輕減の必要を示す者の如し固より外國人の皮相論なれば遂一辨駁にも及ばざることなれども一通り我農家の眞面目を語らんに右の如く耕作の入費を一々計へ立てゝ百姓の勞役までも日雇の賃錢に積り、出る所は斯の如くにして入る所は斯の如しと帳面の上に見れば農家の立行く可き計算はなけれども是れは表面の數字にして其實は數字外に農民呼吸の餘地あるを見る可し收穫の米何石何斗と云ふと雖も收穫前の畔刈に燒米を製して食ひ、籾摺數日の間は精白の米飯に飽き、籾を摺れば碎米もあり糠もあり又地面に就ては畔に大豆小豆を作り又は桑を植え、米麥二作の田地なれば麥は恰も作取りの利益あり又田畑を耕して田の方は租税も小作料も高けれども畑は然らずして之に麥を蒔き粟稈蕎麥等の雜穀を作りて平生の食料に充て宅地の周圍に野菜を取れば烹て食ふ可し、手作の綿は手織木綿の材料と爲り、繭を賣れば以て四時の衣服を買ふ可し、味噌も醤油も大抵皆家に作るのみか其材料たる豆と麥も又自家の地面に生じたる者なり薪炭も殆んど無代價にして朝夕の要用に唯食鹽さへあれば他に錢を出して買ふものなしと云ふも可なり農家の生活の簡單なること大凡そ斯の如くにして其飢えず寒えざるの細事情は等しく日本國人にてありながら都會住の者には想像の及はざるもの多し況んや外國先生などの視察に於てをや迚も行屆く可き限りにあらず故に細論を止めて大體の經濟より論ぜんに外國人は今日の我地租を重しと稱して是れにては農家の立行く可き道なしと云ふと雖も此言いよいよ信ならんには幕府時代は如何す可きや封建諸藩の年貢は少なくも今日の二倍以上時としては三倍を納めたるの例なきにあらず重税果して斯民を飢寒に殺すものなれば幕餘の黎民孑遺あることなく日本國中の百姓は一人を殘さず疾く既に餓死したる筈なれども實際は然らざるのみならず古來我國の農歩は決して遲々たるものに非ず歴史に據るに日本耕地の反別は足利義政公の時代に九十四萬六千零十六町二反なりし者が凡そ三百年を經て徳川政府享保延享の間には二百九十七萬零七百八十町四反五畝十二歩九厘の外に對馬に五百五十町あり是れより凡そ百四十年を過ぎ維新の後、明治十三年には四百八十一萬六千七百九十六町七反二畝に達したり又亨保年間に貨幣の制を改めたると同時に徳川政府の初年より頻りに耕地を開て穀物の收穫を増し之が爲めに米價大に下落して米を家祿とする士族の流は却て生計の困難を致したるが爲め幕府にて一法を設け幕臣に限り其家祿米の三分二を三斗五升入百俵の價小判二十五兩にて政府に買收することに定めたりとの事實談あり幕府二百七十年の治世に新田開發曾て怠らざりしの情況は明に見る可し日本の農業果して利益なく勞して却て損亡を招くなどの事實あらば誰れか海を埋め山を開て耕地を造る者あらんや誰れか種を蒔て實を求る者あらんや今その然らずして田畑共に寸地を遺さず尚ほ進んで之を廣くせんことに汲々たるは目下の地租を負擔しながら農民に生活の餘地あるを證す可し唯我輩は自作と小作との利害を知るが故に土地の兼併を悦はず苟も自作を減じて小作を多くするの勢を助る事柄なれば力を盡して之を防がざるを得ず即ち地租輕減を非とするも此趣意に出るのみ然るに今後の時勢變遷に從ひ若しも政府部内に勢力ある人々が我國情に不案内なる外國人の言を輕信するか或は何か他に思ふ所ありて輕卒にも地租の事を談じ一方には政府固有の税源を直接に空ふして一方には土地兼併の勢を間接に助成さんとするが如き奇變もあらんには我輩は斷じて之に同意するを得ず政客は一時の政客にして國家は萬年の國家なり政客の利害の爲めに國家の長計を左右せんとするも我輩は我忠實なる國民と共に正對反の地に立たざるを得ず我輩の眼中には政黨もなし政府もなし又朋友も知己もなし唯日本國あるのみを知るものなれば苟も國家永遠の大計に關しては滿天下の政客を論敵に引受けても獨り是非を爭ふに躊躇せざる者なり
地租論畢