「社會の開進 (昨日の續)」

last updated: 2021-12-25

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時事新報に掲載された「社會の開進 (昨日の續)」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

前來既に述べたる如く日本社會の欠典は上下の知徳懸隔して上流には開明進歩の氣風頗る盛なれども下流の最多數は依然として三十年前の舊套に安んじ毫も文明の利澤に浴することなきのみならず維新以來の百般の施設は益益その懸隔を甚だしからしめたりとの事實果して相違なしとすれば今後經世の急務は何は扨置き社會最多數の人人と開明進歩を共にして文明の利澤を大にするの工風肝要なる可し今の文明世界に於て國の獨立繁榮を維持せんとするには社會の開明進歩を謀らざる可らず而して其開明進歩とは社會最多數の開明進歩に外ならざればなり扨その方法に就ては政府の當局者が從來の心事を改めて法を以て人を率ゆる其代りに人民と共に進の覺悟にて政治上に法律上に注意するは勿論、殊に教育の如きは最も一般の進歩に關係あるものなるが故に從來の組織にして果して今の國情に適せず徒に高尚に馳せて實際に智識の普及を妨ぐるの傾向ありとすれば今後は速に其組織を改めて程度を低くし一般の社會をして日常生活の實際に日新の學理を應用し以て開進の利澤を普及せしむるの方法なかる可らず既に從來の非を悟りて其施設の跡を觀察するときは改良す可きもの一にして足らず何れも當局者の注意を要する所のものなれども凡そ一般社會の開明進歩は直接に奬勵するよりも寧ろ間接に誘導する方、却て實際に有力なることを知らざる可らず教育の如きは人智を進むるの道具としては必要欠く可らずと雖も其結果を收むるには幾多の年月を要するものにして今の社會の最多數をして今日唯今より其澤に浴せしむるは中中容易の事に非ず抑も日本の社會に知徳懸隔の度殊に甚だしきは上流の者は西洋文明の事物に接して感化を受くること多き其反對に下流の一般は之に接するの機會甚だ稀にして其耳目の及ぶ所、極めて狹きが爲めに外ならざれば目下の要は何は兎もあれ一般の多數をして多く文明の事物に接し知らず知らずの間に其感化を受けしむるより先なるはなし此一點より見れば外人をして内地に雜居せしめ内外の人民日日相接するの端を開くが如きは社會一般の開進を促すの最好方便なれども内地雜居は條約改正の一條件にして今日の模樣にては容易に實行を見る可きに非ざれば更に他の方便を求めざる可らず我輩の所見を以てすれば大に航海を擴張し日本の船舶を以て西洋諸國との航路を開き往來交通をして一層便ならしむること最も急要なるを信ずるものなり今日とても年年我國より渡航するもの少なからざれども其人人を問へば多くは官吏學者の類にして視察に學修に其得たる所の結果少なからずとするも歸りて之を事實に施すに至りては唯上流の一部分を益するのみにして其餘澤は曾て一般の社會に及びたることなし畢竟今日に於ては彼我の交通割合に不便なるが故に其不便を犯して渡航する人人は官吏學者の種類に過ぎずして隨て其視る所、學ぶ所も一部分に止まればなり然るに若しも日本の船舶を以て航路を開くに至らんか其便利は决して今日の比に非す例へば外國の船舶なれば第一言語の不通を始めとして起臥飮食等萬事に不便勝にして旅馴れぬ身には心細き限りなれども之に反して日本の船舶なれば是等の不便もなく其安樂なることは日本の内地を旅すると同一にして彼地に到着すれば公使館領事館又は在留の朋友知己もありて如何なる用便にも差支なきが故に此安樂なる航路にして一たび開くるときは内國人にして彼地に渡航するもの必ず多きを加ふるに至るや疑ふ可らず商に工に其種類を問はずして渡航のもの益益多ければ彼國の事情は次第に一般に知れ渡りて自から社會の開進を促すに至る其效能は决して教育學問の及ぶ所に非ざる可し故に我輩は日本社會の欠典を醫せんとするには一般の人民をして文明の事物に直接せしむるを專一なりとして扨その方法に至りては今日の處、先づ航海の便を開くを以て肝要なる可しと信ずるものなり思ふに世の經世の士君子は自から其説ある可し我輩の敢て教を乞はんと欲する所なり(畢)