「醫師開業試驗規則」
このページについて
時事新報に掲載された「醫師開業試驗規則」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
醫師開業試驗規則
衆議院に出でたる漢法繼續の請願及び醫師開業試驗規則の改正案は未だ議决に至らざる中
に議塲の閉會と爲り可否を見ずして止みたれども思ふに此種の案の出てたるは决して偶然
に非ず其由來する所に事情を尋ぬれば至て深きものあるが故に今回は假令ひ議决に至らざ
るにもせよ次會の議會には必ず更に再現して或は否决さるゝことあるも再三再四遂に議决
に至らざれば止まざることならん抑も漢法醫術の學理上取るに足らざるは今更ら述ぶる迄
もなく世人の既に知る所にして實は漢法家自身と雖も其運命を覺悟したる程なる今日に當
りて端なく再燃の勢を逞したるは必ず故なきを得ず我輩の所見を以てすれば其原因は現行
醫師開業試驗規則の高尚に過ぐるが爲めに外ならずと信ずるものなり近年來日本社會の風
潮を見るに西洋文明の氣風は到る處に流行して之に反對を試みるものなきのみか一般の人
氣は唯その流行に後るゝことを是れ恐るゝのみ即ち文明進歩の大勢にして政治法律敎育兵
制を始めとして日常の衣服飮食に至るまでも只管その風を學んで互に相誇る其最中に假令
ひ醫流の人々と雖も獨り舊物に安んじて自から得々たるものはある可らず現に漢法家の語
る所を聞くに其子弟にして一たび解剖生理の初歩を學ぶときは自から其家學の荒誕無稽な
るに驚て亦これを顧みるものなしと云ふ眞理原則の爭ふ可らざるは其人々も亦自から認む
る所にして道理を以て勝つの望は萬々これなきに然るに漢醫復活の説、今日の社會に出
でゝ案外に賛成者の多きは自から他に原因あるを知る可し即ち我輩が其原因を現行の試驗
規則に歸したる所以にして此事に就ては從來論じたる所も少なからざれども今日の塲合に
臨んでは重ねて醫政當局者の注意を乞はざるを得ず現行の規則は完全なる點に於て申分な
けれども其試驗科目は何分にも高尚に過ぎて容易に門に入るを許さゞが故に天下の醫たら
んとする者は恰も其路を鎖されて進むに由なく止むを得ずして漢法繼續の血路を開き以て
免許の自由を得んとするに過ぎざるのみ故に漢法繼續に賛成者の多きは必ずしも其道の再
興を謀るの熱心に非ず唯今の試驗規則の束縛を免れんとする一種變態の運動たるに過ぎず
其情は寧ろ憐む可きものと云ふ可し元來醫道の目的は病苦を輕くし死者の割合を少なくす
るより外ならざれば今の日本社會に於ては高尚なる少數の醫師を養成するよりも寧ろ文明
醫學の主義をさへ了解すれば先づ夫れにて十分なりとして兎にも角にも學醫の領分を廣く
し幾歳月の間に遂に本來の大目的を達するの工風こそ肝要なれ之を醫略と云ふ、醫道の本
願は醫略に由て成就することと知る可し德川の末年に越前の福井藩にて醫制を一變し藩内
の醫師は西洋流のものに限り一切漢法醫の開業を禁じたることあり勿論當時の事とて純粹
の西洋醫とては甚だ稀れなりしかば醫流の狼狽は一方ならず左ればとて漢法とあれば差當
り業を營むこと能はざるが故に止むを得ずして一夜の中に其流義を變じたるものも多かり
しと云ふ一夜の轉業、遽に流義を新にすること能はざるは無論なれども數十年の後に至り
此一令の影響する所甚だ容易ならず今日越前地方には殆んど漢醫流の跡を絶つのみならず
近時の醫師社會に越前出身の學醫少なからざるを見ても之を知る可し左れば醫師の試驗の
如き必ずしも始めより高尚なるを要せず學理の大要を知るを以て十分なりとし其學醫の數
を多くせんこと目下の急務にして即ち醫略上に務む可き處なるに今の當局者は醫學に於て
は敢て間然する所なきも醫略の一點に就ては毫も注意する所なく只管高尚を旨として試驗
の方法を難澁にし遂に一般の反動を招きて漢醫復活の氣焔を再燃せしめたるは學者固有の
愚直拙劣を云ふの外なし福井藩當日の當局者に對しても面目なかる可し故に今後の策は唯
試驗の規則を寛にして廣く醫師入學の門を開くに在るのみなれども尚ほ此邊に心付かずし
て油斷もあらば其油斷の間に漢醫論は議會を通過して意外の結果を見るに至るやも知る可
らず我輩は醫政の當局者が今の中より醫略を運らして大に醫門を開かんことを文明醫道の
爲めに祈るものなり