「名譽と利益.」
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時事新報に掲載された「名譽と利益.」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
名譽と利益.
人民の心事潔白にして名譽を重んずるは我日本國の特色なりとて頻りに誇る者あり、我輩も亦同感にして事實を認めざるに非ざれども其事實は果して國の爲めに利益のみにして曾て弊害なきものなるや否や聊か疑なきを得ず名譽重しと雖も其これを重んずるの餘り遂に實際の利害を忘るゝが如きは國家の得策に非ず凡そ名譽と利益とは人の欲する所なれども名利兩全は動もすれば時勢の許さゞる所なるが故に日本人は特に名を重んずる人民なりと云へば之を重んずると同時に特に利を空ふするの事實あるも亦推して知る可し
近來我國人の海外に旅行するもの年々に增加する其中には定まりたる生業なき無頼漢若しくば言ふに忍びざる醜業を營む婦人等もあり此者共をして各々其行かんと欲する所に行かしめ外國人の見る處に於て亂暴醜行を恣にせしむるは我國に取りて此上なき耻辱なりとて政府に向て其外行禁止を促す者あれば政府中にも亦自から同意見の人少なからずと云ふ一應尤もなる次第なれども更に眼界を廣くして宇内の大勢をながむ(目偏に永)れば善惡醜美相混して純精無雜のものを見る可らず之を人身に喩れば世界中に十全健康の人なきが如し殘念ながら浮世の常態、人事の不如意にこそあれば今我國より出る出稼人の中に望ましからざる人物を混同したればとて之が爲めに國の面目を害するなどの心配もなかる可し現に歐羅巴の諸國より合衆國を始め世界の各地に移住する勞働者の中には不徳無法、眞に社會の邪魔物とも稱す可き者多くして其到る處に嫌忌せらるゝの事例珍らしからざれ共左ればとて此邪魔物を輸出したる歐洲の國々が世界に對して名聲を損したるの談を聞かず假りに一歩を讓り出稼人の取締は國の面目の爲めに要用なりとするも實際に其方法ある可きや我輩は之を保證するを得ず無數の海外旅行者に就き一々其の身元を取調べ其旅行の目的を聞糺さんとして法を寛にすれば法なきに等しく之を嚴にすれば間違ひを生じて無辜の人民に迷惑を感ぜしむること多かる可し從來の經驗に於て既に明白なる事實なり左なきだに故郷に戀々たる我國人が折角の决心も政府の干渉を蒙りて外行容易ならずとあれば之が為めに志を挫かれて國民一般に出稼の念を斷絶し我殖民業は何年を經るも到底繁盛に達するの望ある可らず國の不利これより大なるはなし左れば政府の當局者も民間の論客も官府の筋にて一々出稼人の性質を吟味して玉石を撰分け石を内に藏して玉を外に出すなど云ふ實際に行ふ可らざる小刀細工を斷念して事を自然の成行に任せ誰れ彼れの區別なく其行くがまゝに任せて次第に移住の習慣を起さしむるの大膽政策を取らんこと我輩の希望に堪へざる所なり
世間或は我輩の立言を悦はず其言は利を先きにして名譽を後にするものなりとて非難もある可きなれども如何せん今の世界は利慾一偏の世界にして復た名譽のみを言ふ可らず假令ひ一個人の間には徳論の制裁あるも國と國との交際に至ては全く徳義の領分を離れ地球上幾多の國々は即ち幾多の自利團體にして其自利の目的を達する爲めには如何なる卑劣無法手段をも用ふるに憚らざる程の實際なれば斯る劇しき風潮の中に居て獨り日本のみが徳義を重んじ小名譽の爲めに大利益を空ふするが如きは迂濶の最も甚だしきものにして遂には其小名譽をも併せて空ふするの奇談ある可きのみ盖し英米と云ひ叉獨乙と云ひ方今文明社會の大國と稱せらるゝものは何れも皆國民の全力を盡して公私の利を謀るが故にこそ今日の盛大を致したることなれ利を知らざる者は國を知らざる者なり凡そ一國の兵事､教育､學問其他百般の事物は悉皆錢の力に由て成らざるものなし富國は啻に強兵の基のみならず國の名聲を發揚するの最良手段なり我輩が夙に實利主義を主唱するも敢て國家の名譽を等閑に附するに非ず先づ國の實を利して然る後に其名を發揚せんと欲するの趣旨のみ今日世間の自稱愛國者流が名譽云々の議論を唱へて却て實際有形の利害に無頓着なるは抑も事の本末輕重を誤るものにして我輩の感服せざる所なり