「復職せしむ可し」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「復職せしむ可し」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

復職せしむ可し

渡邊前長官の處分の爲め一時有名なりし北海道炭礦鐡道の線路變換事件も過般井上鐡道廳長官が同地に出張して親しく實地を〓分の上、其不都合なきを認めて直に開業を許可するの運びと爲りたるは近來の決斷にして会社を始め同道人民の一般に喜ぶ所なる可し抑も前長官が同會社々長堀氏を免職せしめたるは其筋の許可を經ずして漫に線路を變換したりとの一事に外ならざれども前後の事情を考ふれば其處分に就て我輩の意を得ざるもの頗る少なからず思ふに堀氏は一會社の社長なりと雖も炭礦會社は尋常の諸會社と異にして政府の特典も厚き代りには社長の撰任は殊に鄭重を旨とし人物を精撰して官より命ずるの定めなれば其任免は決して容易に爲す可きものに非ず然るに堀氏が職を免ぜらるゝ時の有樣を見れば家族の不幸に遭ふて愁傷の最中深夜人を馳せて突然辭表を促し又その辭表をも待たずして免職を嚴達したるが如き如何にも急卒にして尋常の事態に非ず殊に當時の新聞紙には會社の内情なりとて會計上に百何萬圓の不始末ある旨を記したるものあり其出處の如何は姑く擱き苟も會計の不始末とあれば等閑に付す可らず盖し何れの會社と雖も其内部に立入り俗に云ふ楊子を以て重箱を探ぐるの流に觀察したらば多少の不整理は免れざることならん即ち今の諸會社に普通の例なれども炭礦會社に限りて此普通の例外に特に不始末の大なるものありと云へば社長の責は免る可らず啻に免職のみならず或は罪に價する程の次第なれども我輩の聞く所にては同會社に限りて斯る大不始末のある可き筈なきは申す迄もなく過般の帳簿〓査に於ても遂に不都合を見出すこと能はざりしと云ふ左れば免職の原因は線路變換の一事に外ならざる可しと雖も抑も線路の變換は免職の當時に於て急に發見したる事實に非ず聞く所に據れば是れより先き會社にては線路變換の爲めに土地買入れの必要を生じ道廳に出願して其許可を得たりと云へば假令ひ變換の手續は履まざりしも道廳に於て其事實を知らざるの理由はある可らず如何となれば會社が土地を買入るゝは開拓の爲めにも非ず植民の爲めにも非ずして線路の用に供するの事實は公然明白なればなり若しも會社監督の責任ある道廳にして然かも其管内に起りつゝある線路變換の如き目前の事實を知らずとあれば或は外國人が竊に入込みて土地の開拓又は礦山の採掘等を企つることあるも之を知らずして等閑に過ぐるが如き奇談なしとも云う可らず我輩の不審に堪へざる所なり故に最初土地買入の出願あるに際し果して線路變換の事實を認めたらば會社に忠告して相當の手續を履ましむるなり然らざれば斷然これを差止むるなり何れにしても監督者の責任として盡す可きの手段はありたるに然るに事、茲に出でずして一方に於ては恰も不意に思ひ出したる如く急卒の間に免職を命じ一方に於てはますます會社不始末の風聞を高からしめたるのみならず社長の更迭匆々帳簿の〓査に着手したるなど事情を知らざる一般の世人をして彼比相混交して免職の原因を認むるに難からしめたるは決して穩當の處分とは云ふ可らず喩へば或る商家に於て何か不取締の風聞あるに際し突然傭人に解傭を命ぜられたるものありと云へば其原因の如何に拘はらず當人の名譽は非常に傷けられざるを得ず炭礦鐡道會社の社長は官撰の職にして其任免は容易にす可らざるものなるに時と塲合とにも拘はらず急卒の間に免職せしめたるは唯その不才を責るに非ず明に有罪を表白したるものなれば當人の名譽は申す迄もなく政府の信用にも關係少なからず然るに其免職の原因を聞けば全く線路變換の一事にして社長の進退を決す可き程の事抦にも非ずと云ふ我輩の愈々感服せざる所なり盖し當局者の意見に於ては免職の處分は政府の威信を維持するに止むを得ざるの處置なりと考ふるやも知る可らずと雖も抑も政府の威信なるものは如何なる塲合に於ても泰然として動かず成規法文の外に自から守る所のものあるを示すに在り言行擧動一々法律に拘泥し動もすれば一片の成規に據り百事を處理せんとして變通の妙を知らざるは所謂有司の事にして大政府の威信を維持するの道に非ず否な、却て威信を傷くるものにこそあれば線路變換の一條も實際に不都合を認めずして堀社長の處置は唯その手續を忽にしたるのみとの事實明白と爲りたる今日に至りては政府も速に過去の非を改め堀氏を復職せしむるこそ適當の處分なる可し堀氏一身の爲めに非ず政府威信の爲めなればなり或は北海道は從來薩人の利を專らにしたる塲所にして年來の情實少なからず而して堀氏も亦薩の一人なれば云々の説もある可し我輩も其不都合を知らざるに非ず薩人食潰しの巣窟とまで酷評せられたる北海道のことなれば今日も尚ほ餘弊の存するものある可し之を掃除するは最も願はしきことにして固より世人と同感のみならず聊か所見もなきに非ざれば時に隨て論ず可しと雖も薩人の巣窟論と堀氏の進退論と自から別問題にして彼比混同す可らず唯我輩は人事の秩序政道の威信を重んじ氏の心事如何に拘らず之を促しても一度びは必ず此人の再任を祈るものなり