「愛蘭自治問題と自由黨」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「愛蘭自治問題と自由黨」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

愛蘭自治問題と自由黨

英國にては過般の總撰擧に在野の反對黨多數を得たるの結果としてソールズベリー侯、政府を去りグラツドストーン氏これに代りて新内閣を組織し政權再び自由黨の手に歸したり抑も今回の總撰擧に當撰したる議員の總數六百七十名を所屬の黨派に區別するときは保守黨二百六十八名、聯合黨四十六名、自由黨二百七十五名、愛蘭派八十一名なり然るに保守黨と聯合黨とは近來頗る親密にして殆んど一政黨の姿を成し現に前内閣の如きは保守聯合兩黨の組合内閣とも云ふ可きものなれば此度自由黨が政府に對して多數を制したりと云ふも其實は愛蘭の議員を自黨の數に數へて始めて然るを得るのみ單に自由黨と政府黨と相對するときは却て政府黨の爲めに卅九の多數を占めらるゝは事實に爭ふ可らず左ればグラツドストーンの一派が今般首尾よくソールズベリー内閣を倒して自から政權を握るに至りし所以のものは全く愛蘭派の一致して之を助けたるが爲めに外ならず或は自由黨の新政府は自立するの力なく幸ひ愛蘭議員の扶助を蒙りて存立するものと謂ふも過言に非ざるが如し故に該黨にして今後永く國會に多數を制して其黨勢を維持せんには何は扨置き先づ愛蘭派の歡心を買て其反對を防ぐの工風こそ最も肝要にして該派の宿願は即ち例の自治案の實行なれば新内閣は單に自家の地位權勢を維持する方便としても是非とも速に自治案を實行するの必要を感ずるものと知る可し且又グラツドストーンは兼てより熱心に自治案を主張し是れまでとても屡ば愛蘭人に向て自分の政府に入りたる曉には必ず自治を斷行す可き旨を約束したることあれば此度こそは愈よ其約束を履行して多年の宿望を達するの意ならん旁々以て愛蘭の自治案は十中八九グラツドストーンの在閣中に下院を通過し定めて法律となるものと豫想して間違なかる可しと云ふ愛蘭に自治を許すは果して英國の爲めに得策なるや否やは容易に判斷を下す可き限に非ざれども我輩は唯此の如き國家の安危にも關係する大問題をば政黨爭の具に供して平氣なる英國政治家の大膽に驚くのみ回顧すれば千八百八十六年の總撰擧に自由黨が始めて愛蘭自治案を黨議に加へて公然之を主唱したる其以前には英國の政治家にして斯る政案に同意を表はしたる者とては殆んど一人もなかりしに其一度び黨議と爲りて發表さるゝや先には自治黨員を蛇蝎の如くに忌み嫌ひたる人々も忽ち志を飜して熱心なる賛成者と爲る其變化の急劇なりしは實に驚くに堪へたり自由黨の政治家が斯く遽かに自治案を賛成するに至りしは何故なるかと尋ぬるに其目的は専ら愛蘭派の議員を味方となし以て保守黨に對して多數を制せんとするに在りしこと亦疑ふ可らず千八百八十六年には自由黨員の中に所見を異にする者少なからずして黨内に分裂を生じたれば之が爲め空しく失敗して保守黨に勝を占められたれども爾來六年間に愛蘭の自治黨は益々勢を加へて英國政治社會の一大勢力となりたれば先に一旦は黨議に從はずして自治案に反對したる自由黨員も今日の大勢、自治案を賛成して愛蘭議員を味方となすに非ざれば到底保守黨の政府を倒すこと能はざるの事實を發明して漸く之に同意する者の數を增し遂に此度の撰擧には其望通りに愛蘭派の加勢を得て以て保守黨の政府と倒すことを得たり然れども今日とても自由黨の政治家が果して眞實自治案の實行を希望するや否やに就ては甚だ疑なき能はず我輩の竊に想像する所を以てすれば黨員の多數は唯政權回復の一手段として心ならずも愛蘭議員の機嫌を取る者にして内實は却て自治案に大反對の者も少なからざる可しと信ずるなり英國の政治家中には自治案の張本たるグラツドストーンとても亦唯黨派の利益を謀るが爲めに此政案を主張するのみ其實は英國全體の利害を思ふて然る者には非ざる可しとの疑を抱く人さへ少なからずと云ふ兎に角に愛蘭自治の問題は英國の爲めに此上なき大事件なるにも拘はらず彼國の政治家が之を處理するに當り全國一般の利害よりは寧ろ一黨派の利害を目的として進退を決するの形跡あるは如何にしても事の前後輕重を誤りたるものにして黨派政治の弊も是に至て殆んど極まれりと云ふ可し我國にても近來は政治上に黨派の爭漸く盛にして早晩黨派政治の世の中となるを免かる可らざれば今より勉めて西洋諸國に於る政黨政治の状況に注意して其弊害の在る所を察し禍を未發に防禦するの覺悟なかる可らず遇ま英國の政變に際し感ずる所を記して世間識者の一考を煩はすのみ