「多を望まず」
このページについて
時事新報に掲載された「多を望まず」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
多を望まず
近頃政治社會の事情を察するに其政府に賛成と反對とに論なく新内閣は老政客の顔揃ひなれば其政略も必ず見る可きものある可しとて一般に望を屬するものゝ如し即ち所謂民黨の如きも撰擧干渉の處分は云々なり地價修正の始末は云々なる可し流石は元老の内閣、民論を容るゝに吝ならざる可しとて從來の擧動にも拘はらず竊に之に依頼して滿足と得んと欲するの口氣あるこそ奇態なれ我輩の如きも屡ば老政客の出身を促したるものにして元老内閣は即ち平生の希望なれども其これを希望したるは大に望を屬したるが爲めに非ず老政客の技倆は兼てより知る所にして必ずしも日本の大政治家として推服するに非ざれども其人々が心身の屈強なるにも拘はらず所謂黒幕の蔭に隱れて進退の明ならざるは政治社會の變態にして種々の不都合も少なからず今の政治上に横たはる難局の由來を尋ぬれば明治十四年以來彼輩の當局中に養成したる其結果の今日事實に現はれたるものなれば其人々が自から出でゝ如何やうにも處理するこそ政治家の徳義にして正當の順序なれと信し特に其責任を重んして身を起さしめんとしたるものなり左れば我輩は元老内閣に向て多を望まず漫に種々の事を計畫して失策を重ねんよりは寧ろ一意専心、從來の不始末を始末し後を善くすることを希望するのみ始ありて終なきは政客の責任を全ふするものに非ざればなり抑も政治の難局とは議會の始末にして本來議會の開設は官民共に和衷協同して國事を處理するが爲めにこそあれば其開設は從來の難を解く可き筈なるに然るに其反對に今日の難局を致したるものは政府年來の處置その宜しきを得ずして民心を失ひたるが爲めに外ならず即ち十四年來の政策を見れば議會の開設を前に控へながら其準備とては唯憲法編纂の一事のみにして實際に民心の向背如何を問はざるのみか寧ろますます其反對を招きたるの跡なきに非ず思ふに立憲政治の創設は空中に楼閣を築くが如きものに非ず憲法の編纂は固より一大事なれども實際に其妙用を見るは民心の和合を第一にして始めて立憲の美果をも収む可き筈なるに時の當局者が其邊の用意を忽せにして千載一遇の好機を空ふし今の難局を招きたるこそ返す返すも遺憾なれ即ち内に於ては財政の不始末を極めながら回復策と稱して急激の手段を施し經濟社會に容易ならざる惨状を呈せしめたるが如き頻りに法律規則を設け又は煩雑の税則を設けて人民をして繁文手數に堪へざらしめたるが如き又外に對しては條約改正の談判に毎度の不體裁を演して信を内外に失ひたるが如き熱心に計畫したる朝鮮政略を遽に抛擲して國の面目利益を等閑に付したるが如き何れも政略上の大失策として一般に認むる所なれども尚ほ我輩の眼を以て輕々に看過すること能はざるものあるは外ならず其人々が虚榮虚飾を旨として益々人心を失ひたるの一事なり彼の族爵の制を定めて新華族に叙せられ位記の如きは非常に昇進して昔しの公家大名を壓倒し又荘大の官邸を設けて人の目を驚かし盛に舞踏會假粧會等を催ほして豪奢を競ひたるが如き何れも今の老政客當局中の出來事に外ならず學者の眼より視れば小兒の戯に異ならざれども徒に社會に羨望の情を挑發せしめ民心の反對を招きたること非常にして其餘毒の今に存するもの少なしとせず即ち政治の難局を致したるは政治上に一身上に十四年來の結果として現はれたるものなれば今度の元老内閣は何は兎もあれ先づ其始末を付けて生前死後に免かる可らざる義務を果し天下後世に對して自から明にする所なかる可らず若しも然らずして其儘に差置き更に新奇の手段を以て喝采を博せんとするが如きこともあらば社會の人心は之を許さずして益々その困難を增し俗に所謂虻蜂取らずの境界に陥ることなしとも云ふ可らず我輩の取らざる所なり老政客の人々も今は漸く老して多くは五十以上六十近くの年齢なれば今後政治上の生活も長きを期す可らず今より早く覺悟して年來の非を正し目下の難局を解いて立憲政治の基礎を定め以て政客たるの徳義令名を全ふせんことこそ肝要なれ我輩は此事を外にして更に多を望まざるものなり