「病素實檢」

last updated: 2021-12-25

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時事新報に掲載された「病素實檢」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

北里柴三郎

今茲に現今の免病方法の一例を擧げん

破傷風バチルヽスは人工を以て之を發育せしむることを得べし獨り破傷風バチルヽスのみ

ならず虎列剌、膓窒扶私、肺結核等其病原の知られたるものは總て其バチルヽスを人工に

て發育せしむることを得べし扨破傷風バチルヽスを人工にて發育せしむるときは一の物質

を産生し極めて劇烈なる毒質を有せり此毒は又化學藥品を以て之を弱くせしむるときは其

毒力大に減じ始めは僅かに一滴を以て馬一匹を斃すに足るべき毒力を有するものも之を弱

むるときは十滴乃至二十滴を注入するも尚斃すべからざるに至る右の方法に從ひ毒力を弱

めたるものを強弱幾種も作り置き試驗すべき動物即ち馬に向て極めて毒力の薄きものより

注入し漸次順を逐ふて毒力の強きものを注入すること三週間に及べば其後は極めて劇烈な

る毒力あるものを注入するも試驗動物は終に破傷風に罹らざるなり斯くして既に破傷風に

感ぜざるに至りたる馬の血液を採り其血液を鼠又はモルモツト等に注入するに决して發病

することなし對照試驗に供したる動物即ち免病質となりし馬の血液を注入せずして破傷風

毒を注入したるものは悉く破傷風を發して斃死すべし此の如く免病質と爲したる動物の血

液を他の動物に注入して其動物を免病質とならしむるの力はアンチトキシーネにして血液

の血精中に重に含存す而してアンチトキシーネの効は獨り動物體に病毒の侵襲するを禦ぎ

動物をして該傳染病に感染せしめざるのみならず既に病に罹りたる動物を治癒するの効あ

り破傷風は其病因たるバチルヽスは疵口より侵入し其部に毒を釀し之が全身に廻るときは

人類と動物との別なく所謂痙攣強直を起し遂に死に至らしむるものなるが扨其毒を動物體

に植え動物をして充分なる症状を起さしめたる後、右の血液を注入して之を治療すること

を得るなり右の如く破傷風毒に習慣せる血液は之を接種して豫防すべく又治療すべきは今

日研究上の結果なり實布垤里亞も同一の成績に達せり破傷風並に實布垤里亞の豫防及び治

療の成績は既に右の如く好結果を得るに至りたるも之を人體に試むることは此頃始めて着

手せしも人體に在ての成績は此上研究を重ぬるに隨て好結果を得るや必せり

又古弗氏の發見に係る結核治療の方法を他の傳染病に應用せば如何結核治療に用ふるツベ

ルクリンは結核バチルヽスを人工を以て發育せしめ是より得たるものなるが之を得る方法

を通俗的に概説すればソツプを作り濾過して透明ならしめグリスリンを加へ之に結核バチ

ルヽスを殖えて體温即ち攝氏三十七八度の温度を有する蜉卵器中に置ときは極めて能く發

育すべし其發育したるバチルヽスの少量を取て動物即ちモルモツトに接種するときは凡そ

三週間にして動物體の脾臓、肺臓、肝臓等は皆結核となり此のソツプ中に發生したる結核

菌を其儘火に上し水分を蒸發して濃厚の液と爲すときは其バチルヽスは熱の爲め總て枯死

す此液即ちツベルクリンなり扨此ツベルクリンを結核に罹れる人體若くは動物體に注入す

るときは結核病に侵されたる部分に至り其病毒と戰ひ毒力を薄弱ならしめ終に其毒を去り

之を平癒せしむるに在り又其健康なる組織は之を免疫せしむるの効あり

此方法を他の傳染病に應用せんと欲して種々の研究を遂げ終に虎列剌、膓窒扶私病等にも

應用することを得たり即ち其バチルレンを前の手續に從て充分ソツプの中に發育せしめ又

熱して之を殺し其産生物のみを殘さしむ其熱度の高きに過ぐるときは作用を失ふが故に該

バチルヽスを殺すに足るべき攝氏六十度の温度に僅少時間觸れしめて可なり斯くするとき

は病毒となるべき作用は消滅して毒を禦ぐべき物質を遺殘す之を血液療法の試驗と等しく

一旦動物に接種したるときは更に強烈の病毒を接種するも决して發病することなきなり且

血液注射よりも頗る少量にて足れるが故に治療的に於ても實際に應用することを得るに至

れり破傷風、實布垤里亞も此方法に由れば奏効速かなり

從來傳染病中只痘瘡を除くの外は一も之を豫防すること能はざりしが今日は上來陳述する

が如く毒を以て其毒を制し之を豫防し又之を治療するの方法を發見し結核、破傷風、實布

垤里亞、虎列剌、腸窒扶私、の如きは殆んど治療の實効を収めんとするの時期に進み其他

の傳染諸病は未だ全然其目的を達するに至らざるも此方法に從て研究を重ぬる時は終に其

原因の明かなりし所のバクテリヤ及びプロトツオンの人口發育を爲し得るに隨ひ其治療法

も直に之を見出し得るに至るべし

斯の如く近來バクテリヤ學の進歩するに從ひ傳染病を豫防し及び治療するの方法は全く其

方向を一轉したり虎列剌の病因即ちコンマ パチル丶スなるものを發見せられたるが爲め

疑似の患者は其排泄物を檢査して直に其病症を確定するを得、又進んで其原因の生理的性

質を探究し患者の排泄物に消毒藥を投入して其蕃殖は其侵襲を防ぐと之を消毒すると即ち

豫防撲滅を以て衛生學者の務となせしか扨傳染病と云ふも其病と云ふ點に至ては他の普通

疾病と異なるなく之を治療する方法の研究は本來治療を専門とする内科醫の職分に屬すれ

ども其内科治療醫の爲す所は熱あるを見て解熱劑を投し痛ありと聞て鎭痛劑を與ふ如く徒

らに症候療法を施すのみにして原因療法の研究頗る姑息冷淡に屬するを以て終に衛生學者

は自家の領分を越えて治療法にまで踏み込み即ち今日の衛生學者たるものは傳染病を研究

して其原因を發見し豫防法を考へ更に治療法も研究せさるべからさる塲合に立至れり幸に

今日の進歩を得たるを以て之れか固有の豫防法又固有の治療法を探究して許多の傳染病を

豫防し治療し得るに至るは余は今より十年以内に在らんことを信するものなり(完)

正誤 昨日の本欄第二段第四十七行中「善感する時は四五十年間は激烈なる云々」とある

四五十年は四五年の誤りなり