「官吏登用規則の結果」
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本文
官吏登用規則の結果
政府が明治十九年に文官試驗規則を發して官吏登用の制限を定めたると同時に官公立學校
の卒業生にのみ特典を與へたるは如何なる趣旨に出でたるや知る可らずと雖も今日の成行
を見れば案外の結果あるが如し近來の識者は後進生の爲めに處生の方向を談じて官海の外
に立身出世の道あることを説き商賣上實業上の功名を促して止まざるにも拘はらず年來の
遺傳習慣は容易に變ずること能はざるものか封建士族の遺流もしくは其遺流に傳染して士
化されたる後進の壯年輩は兎角商賣家たり實業家たることを厭ひ男子畢生の名譽は唯官途
の出身に在りと信じて滔々相率ゐて狂奔する折抦、試驗規則は恰も官立學校を認めて官吏
口入れの門と爲したるが故に天下の壯年輩が其門に群集して官途志願の目的を達せんとす
るも素より怪しむに足る可らず聞く所に據れば近來各種の官立學校は右の官途志願人を以
て充滿するの姿なる中にも殊に盛なるは帝國大學にして其分科の中、學生の最も多きは法
科にして理科文科の如きは極て寥々たる有樣なりと云ふ法科の學生のみ何故に多きやと云
ふに右は何れも法律政治の學を修め政府の採擇に預らんとするものにして今日の有樣を見
るときは帝国大學は官吏の養成所と云ふも敢て過言に非ざるが如し官公立の學校は國民の
共有物にして其目的は學者技藝家等、廣く國家に有用なる人物を敎育す可き所なるに單に
政府の爲めに官吏の製造に從事するとは既に本來の目的を誤りたるものにして識者の議論
を免れざる所なれども其議論は兎も角もとして抑も試驗規則を設けて官公立學校に特典を
與へたるは如何なる趣旨に出でたるものと見て然る可きや或は文部省の當局者が自家の學
校の繁昌を謀らんが爲めに其特典を利用して天下の子弟を悉く其門に集めんとするの計畫
にてもあらんか果して然らば間違の大なるものと云はざるを得ず本來敎育の授受は商品の
賣買と同樣にして需用供給の法則に從ふ可きものなれば其程度は人々の生活の度に釣合ひ
家に餘りありて生計に差支なきものは高尚の學問を學び然らざるものは卑近の敎育に安ん
じてこそ始めて社會自然の順序を失はざる可きに然るに今〓官立學校の仕組は全く此邊の
用意を欠く其上に試驗規則の特典は恰も餌を掛けて人を待つものに異ならず天下の子弟が
餌の香しきを見て其門に輻輳するは怪しむに足らず一時の繁昌は喜ぶ可きが如しと雖も其
幾千百の子弟が多くは身分不相應の學問を修めて然かも目的は官途の一方に外ならずとあ
りては其始末は遂に如何なる可きや少しく經世に意あるものゝ了解に苦しまざる所なる可
し或は又文明流の政を行ふて内に情實の沙汰を絶ち外に物論の喧しきを避けんとするには
政府の官吏に知識才能ある人物を要せざるを得ず試驗規則の止む可らざる所以なりとの説
もあらんか官吏に知識才能を要するは勿論なれども今の規則は果して能く情実を絶ち物論
を避くるの目的を達することを得べきや否や我輩の大に疑ふ所なり聞く所に據れば近來帝
國大學にて法律政治の學科を卒業して就官を望むものは益す益す多きを加ふれども官吏の
數には自から限りありて其望を滿足せしむること能はざるより往々にして不平の沙汰も少
なからざるよし現に此程某省に於て一人の高等官試補を任用するに當り其候補者として出
でたる大學の卒業生は四十人の多きに及びたりと云ふ一人の試補に四十人の候補者とは驚
く可きが如くなれども今後卒業生の增すに隨て六十人八十人もしくは百人の多きを見るに
も至ることならん數に於て明なる所なればなり扨その四十人の中より撰まれたる一人は適
當の人物と認められたるものにして自から得意なる其反對に取遺されたる三十九人のもの
は大に不平なきを得ず盖し其人々より見るときは當撰の一人は必ずしも拔群の人物に非ず
或は學問の一事は少しく見る可しと雖も實際の技倆に於ては一も取る可き所なし然るに
我々を置て彼の一人を撰みたるは畢竟情實の沙汰にして甚だ不都合なりなどとて自から咎
めずして他を怨むこと人情の常なればなり即ち俗に云ふ自分天狗にして自から悟らざるも
のなれども兎に角に其不平は人生に免れざる所にして此三十九天狗が次第に增して五十九
天狗となり七十九天狗となり更に九十九天狗とも爲るに至れば其聲ますます高くして詰り
政府の累を爲すに至る可し即ち情實を絶ち物論を嫌くるの目的は全く表裡して益す益す政
府の反對者を多くするの結果なきを得ず我輩は屡ば試驗規則の不都合を論じ其廢止を促し
たれども此一事に就ても益す益す廢止の必要なるを知るに足る可し當局者の注意を望む所
なり