「傳染病の豫防を如何せん」

last updated: 2019-11-26

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時事新報に掲載された「傳染病の豫防を如何せん」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

傳染病の豫防は國家事業の大なるものなり其豫防いよいよ密なれば病の襲來も亦いよいよ

繁く夏期のコレラのみならず膓窒扶斯、赤痢病、ヂフテリヤ等の如き時を撰ばずして猖獗

を逞ふする此際に當りては豫防の手當ますます等閑に附す可らざるは云ふまでもなきこと

なるに爰に豫防法の實施に意の如くならざるものありとて國手松山棟庵氏が一編の意見書

を記したり書中の文字皆學理を重んずるの精~より出でゝ遂に古流醫道の存廢にまで論及

したり依て本紙上に掲載して社説に代ふ           時事新報記者記

凡そ傳染病の慘害を社會に流すや極めて猛惡にして殆んど常人の意想外に出ること多し彼

の虎列剌病及び窒扶熱の如き一たび流行の勢を逞ふするときは僅々數閲月にして幾十萬人

の生命を奪ひ幾百萬圓の財産を烏有に歸せしめ人々日夜安寧の時なく商賣工業學校敎育其

他百般の人事を休止するに至ることあり豈恐れざるべけんや豈之が豫防法を等閑に付して

可ならんや抑も安政四年に當り虎列剌病の大に流行せるや當時未だ豫防の方法を知らざり

しを以て其勢最も猖獗を極め爲めに死亡せる者數十萬人の多きに及べりと云ふ大政維新以

來文明東漸の故を以て我國の醫學も亦大に進歩し始めて傳染病毒の性質如何を知ることを

得たりと雖も政府は未だ之が豫防法を規定するに至らざりしが明治十二年偶ま虎列剌病の

大流行あるに際し政府は遽に其豫防假規則を發布し以て虎軍の防禦に從ひしが其事たる官

民共に未だ經驗なき所なりしを以て實地に臨み周章狼狽頗る甚だしく巨萬の金額を消費し

て其得たる所の結果は甚だ妙ならず盖し病毒を撲滅するに於て多少功を奏せしならんと雖

も他日見るべきものは只無智の人民をして惡疫を隱蔽せしむるの習慣を作りたるに過ぎざ

るのみ今日より當時の實况を追懷すれば捧腹に堪へざるもの一にして足らざるを覺ゆべし

然りと雖も虎列剌病流行の爲めに我國衛生上の法律を規定し且つ大に其事業の進歩を促し

兼て又世人をして衛生の何物たるを知らしむるの端緒を開きたるは之を虎列剌病の賜なり

と云ふも盖し溢言に非ざるべし扨翌明治十三年七月に至り政府は傳染病豫防規則を發布し

且之に隨伴せる内務省令、警察令府令、縣令等該病に關係せる衛生法規の如きは頗る精密

を極め殆んど遺憾なきに至れり然り而して爾来之を實地に施行し該當官吏は黽勉毫も怠る

ことなきも傳染病の流行は年々歳々已むことなく腸窒扶斯は已に全國に蔓延し赤痢病の如

きは九州四國中國より畿内に侵入し遂に東海に傳播せるを以て是れ亦腸窒扶斯の如く將さ

に全國の一大傳染病たらんとするの勢あり斯の如く傳染病毒を撲滅すること能はずして豫

防の功績を収め得ざる所以の者は果して何ぞや必ず其故なきを得ず盖し我輩の所見を以て

すれば衛生法規は從令ひ金科玉條なるも又之を行ふ該當官吏は從令ひ明識敏捷なるも常に

傳染病豫防をして其功を空しからしむ所の二大原因あるが如し今此原因を究明するは國家

衛生の要務たるを信するが故に左に其概略を陳述して以て識者の敎を乞はんとす

抑も傳染病豫防規則及び之に隨伴せる諸法令の精~目的は只此傳染病の原因たる病毒を撲

殺し盡すに在るが故に此種の法令は悉皆歴然たる文明の學理を根據として規定せる所なり

是を以て不文蒙昧の世に行はれたる空論漠説の如きは毫も間然するを許さゞること勿論な

り左れば斯る法令の下に在て病を診斷治療し且其豫防消毒の大部分を負擔すべき醫師たる

者は素より文明の學理に通曉するに非ざれば勞して其uなく却て害を招や明なり彼の虎列

剌病の流行時に際し或は檢疫醫となり或は豫防醫員となり或は避病院の治療醫となり死地

に臨で虎軍と戰ひたるものは日進醫學を修めたる醫師たりしに非ずや以て文明學術の必要

を知るに足るべし斯の如く傳染病を豫防するに學術を要するは猶遠洋の航海に學術を要す

るが如し船中に裝置せる蒸汽機關、羅鍼盤、風雨鍼、測量器等は悉皆文明の學理を根據と

して製作したるものにして苟も海員たる者にして之を使用するの學識なきに於ては焉ぞ能

く怒濤狂瀾の間に安穩なる航海を遂るを得んや是れ誠に理の見易き所の者なり然るに我國

の醫師は千年以前の世に行はれたる彼の陰陽五行の説を根據とし專ら草根木皮を以てのみ

患者を治療する所の漢法醫流の人々を以て其半を占むと云ふ盖し此流派の人々は固より傳

染病毒の何物たるを知るに由なく又其消毒藥及び之を使用するの理由目的を解せざるが故

に文明の學理を以て之を律すれば漢法醫道は决して學問視すべきものに非ざるや論を俟た

ず斯る無稽なる醫流を奉ずるの人々をして現行衛生法規の下に居り以て傳染病を診斷治療

し且其豫防消毒を負擔すべきの地位に在らしむるは猶日本古流の船頭輩をして汽船の海員

たらしむるが如し誰か之を危嶮なしと云ふを得るや然らば則ち傳染病豫防にuなくして却

て害ある者は漢法醫道に在るを明證するに足るべし之を傳染病の豫防をして常に其功を空

しからしむる所の一大原因なりとす (以下次號)