「傳染病の豫防を如何せん」

last updated: 2021-12-25

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時事新報に掲載された「傳染病の豫防を如何せん」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

前段に論ぜし如く傳染病豫防の方法を講究するは國家の要務なり一日も之を輕忽に付すべ

きものに非ず故に我輩は已に學理上より論案を下し漢法醫道は果して此豫防法の實行に害

ありとの事實を推究せり果して然らば更に情實を顧ることなく斷然之を廢止すべきは勿論

なり今や西洋の學者は天地の原理を發見し其力の盛大なること世界の到る處に敵なく或は

蒸氣機關となりて鐵艦を海上に走らし列車を陸上に飛ばし或は電燈となりて暗夜を照し或

は電信となりて千萬里外の音信を通ず醫學も亦此原理に基き病論は月に高尚に進み日に微

妙に達し傳染病毒たる黴菌を發見して之を培養し動物試驗に由て遂に人身に及ぼし以て其

病を未發に防止するの佳境に達せり文明學術の進歩も亦樂しからずや我國の醫事衛生は斯

の如く開明の域内に進み入らんとするも亦一方より世間の状態を觀察するに漢法醫道の我

國に行はるゝこと數百年の久しにに渉りたるが故に人の之を見るは猶宗ヘに於るが如く未

だ佛の有難き所以を知らずして佛像を見れば先づ之を拝むと齊としく病に罹れば漢法醫道

の何たるを知らずして容易に其藥を服して更に疑ふ所なし盖し千古の習慣にして愚夫愚婦

の迷夢未だ覺めざるのみ固より怪しむに足ざれども獨り疑ふべきは世の學者士君子にして

常に能く天下國家を談するも醫事に至りては全く無學にして曾て實理と空理とを識別する

の智力なく偶ま病に罹れば惑溺百出彼の愚夫愚婦と相距ること遠からざる者あるは何ぞや

畢竟其人は理學的の思想に乏しきが爲めに眞理の味を甞ざるの罪のみ盖し俗間の實况は此

の如く緩なるも衛生の要務は彼の如く急なるが故に我輩は一刀両斷以て漢法醫道を廢止せ

んことを欲する者なれども或は今日直に之を實行し難きの事情もあらば或る年限の猶豫を

なし政府は其素志に基き之が廢止令を發して可なり何となれば政府は明治の初年に於て已

に漢法醫道の世に無用なるを明知せしが故に明治九年一月に當り醫術開業の試驗科目を定

め苟も文明醫學の大意を學び得たる者に非ざれば新に開業することを許さゞるの法律を規

定せられたればなり我輩は當時に在て思へらく此試驗法を實行するに於ては凡そ明治二十

年以後には我國内に全く漢法醫の跡を絶つに至るならんと國家文運の隆盛を喜び同志と共

に祝意を表せしことありしが何ぞ圖らん明治十五年に及び醫師の子弟にして二十五歳以上

の者に試驗を要せず免状を下附するに至らんとは是れ何等の理由ありて然りしや恐くは已

むを得ざるの情實に制せられ事こゝに出たるならんと雖も今日より之を視れば誰か當局者

の失策に非ずと云ふを得んや之が爲め將さに湮滅に歸せんとしたる漢法醫をして更に新に

二千餘名を揄チするの不幸に遭遇せり右の次第なるが故に縱令ひ新に開業する者は試驗及

第者に限ると雖も若し此廢止令を發するの運に至らざれば今後尚幾十年の久しき傳染病豫

防の不完全なるに滿足せざるを得ず誠に堪へ難き次第と云ふべし元來我政府の明决果斷な

る已に廢藩置縣の如き又は廢刀令の如き頗る至難なる政務の改良を斷行せられたり豈區々

たる漢法醫道を廢止するに於て優柔不斷徒らに日を空ふするの理あらんや然るに近ろ聞く

所に據れば全國の漢法醫師相結で帝國醫會なるものを創設し此一團體より皇漢醫道の繼續

を衆議院に請願せりと抑も今日の國會議員にして漢法醫道の世に無用なるを知らざる者あ

らんや故に該請願を棄却するは固より其本心なるべしと雖も或は撰擧區民の歡心を失はん

ことを恐るゝにや將た他に原因ありて存するにや我輩の知らざる所なれども請願の賛成者

は已に過半數に達せりと傳ふる者あり果して然らば議員諸氏は笑を千載の下に遺すも敢て

之を顧みるに遑なく該案をして或は貴衆兩院を通過せしむるも亦未だ知る可らず若しも然

るときは政府は如何なる處置に出るや我輩の豫知する所に非ざれども恐くは所謂る握り潰

しの策に出るならん何となれば政府の素志は已に述たるか如く漢法醫道をして自滅せしむ

るに在り而して議員諸氏の本心に訴ふれば决して此醫道を喜ぶ者に非ざるは事理に於て明

白なればなり此に由て之を觀れば縱令ひ我輩の主張する彼の廢止令は又もや情實に制せら

れて發布するを得ざることあるも漢法醫道の運命は最早頼むに足らさるを知るへきのみ盖

し漢醫者流は僅に世の愚夫愚婦と學理的の思想なき人物とをョて以て自家醫道の繼續を維

持し以て一旗幟を立んとするも文明學術の力は至大至盛にして天下を風靡するが故に早晩

廢滅に歸するは自然の勢なれはなり我輩は傳染病豫防の國家的要務たるを認むる故に學理

上より論して遂に漢法醫道の廢止に及び忌憚なく之を攻撃したりと雖も漢醫と洋醫と治療

上に巧拙あるが爲めに立論するに非ず或は西洋家の治療に由て治せざる患者も漢法醫の藥

を服して偶然に治することもあらん或は又洋漢兩醫の治療に由て其功なし只佛像を拜する

のみに由て病の治することもあらん是れ即ち愚人の惑を起す所謂なれども我輩は只醫家取

る所の主義は文明の學理に在るや將た無稽の空論に止まるやを穿鑿するに過ぎざるのみ爰

に本論の局を結ぶに臨み特に漢法醫諸氏に一言せん若し諸氏にして飜然其志を改めて文明

の學理に從ひ以て傳染病の豫防に從事せらるゝに於ては敢て學術の深淺巧拙を問ふにあら

ず又縱令ひ草根木皮を以て患者を治療するも妨なし我輩は諸氏を衛生家として尊重せんの

み諸氏幸に國家の爲め猛省せられよ(完結)