「難局更に一難を加へたり・」
このページについて
時事新報に掲載された「難局更に一難を加へたり・」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
難局更に一難を加へたり・
目下政治の難局は現内閣に在る老政客の責任として免れざる所なれども今回政府が地價修正の案を提出したるの一事は其難局に更に一難を加へて益す益す責任を重くしたるものと云はざるを得ず抑も修正の説は年來民黨の希望として其聲頗る高きが如くなれども眞意の存する所は明白にして識者の間には自から定論あり且隠然社會に勢力を有する獨立具眼の士人は之が爲めに心を動かさゞるが故に若しも政府が守る所を失はずして斷然その决心を示すときは民間の論は自から止むの時ある可し或は自から止まざるも區々たる物論は施政の大體を妨ぐるに足らず目下の難局は自から由來のあることなれば其難を解くには亦自から手段もある可き筈なるに然るに當局者は此邊の計に思ひ到らずして眼前の急に迫られ修正の一事以て百難を解くに足る可しと考へたるものか輕卒にも其案を提出したるこそ抑も間違ひの根源なれ盖し地價修正は民論一般の希望にして之を斷行するが爲めとあれば他の税法の改正の如きは差したる苦情もなかる可し殊に議員の多數は撰擧人民と一種の關係ありて此案に反對せざること必然なるが故に議塲の通過疑なかる可しとて扨こそ一方には修正案を餌に懸け一方には三税改正の要求を爲して交換利用の策に出でたることならん策し得て妙なるが如くなれども本來一般の修正論は眞實に修正其事を希望するに非ず何は兎もあれ政費節减の一點より政府を苦しめんとするに外ならざるものなれば彼を以て此に代ふるとありては到底承服す可らず現に修正の原案は異議なく議塲を通過したるにも拘はらず三税の改正に就ては各黨各派いづれも反對の意見にして純粹に賛成せんとするものは甚だ少數なるが如し其成行は未だ知る可らずと雖も若しも議會の多數が修正案のみは議决し置きながら愈よ三税の改正を承諾せざるときは政府に於ては之を如何す可きや一旦可决したる原案を撤回するか或は貴族院の否决に依頼する外に策なきことならん當局の老政客が辛苦經營して其發表までは固く秘密を守り一發世間を驚殺して瞬間に功を收めんとしたる其得意の政案も俗に云ふ百日の説法に歸して蚋蜂取らずの結果に終るは一塲の奇談として尚ほ可なれども我輩の掛念する所は今後の成行に在り今回政府が修正を明言したるは恰も民論に對して質を與へたるものなれば修正の論は今後ますます氣焔を高め一方の増税は一錢も許さずして只一方に向て修正の斷行を促す其趣は債主が借金の返濟を促すと同樣の觀を呈するや疑ふ可らず年々歳々斯くの如くにして其成行は如何なる可きや政府の事業は一も擧らずして益々局面の難を極め遂に始末の付かざるに至るの患はなかる可きやと我輩の今より氣遺ふ所なり或は叉民論の鋒、案外に鋭ならずして表面には反對の權幕を粧ひながら内實は撰擧人民の怒に觸るゝことを恐れて修正案と共に三税の改正にも同意することあらんか政府の計略は恰も其圖に中りて一時の成行は甚だ妙なるが如くなれども扨その結果は如何と云ふに一たび或る部分の修正を斷行するときは其澤に浴せざる他の部分のものは忽ち不平を訴へて喋々すること猶ほ今日の有樣に異ならず其不平は次第次第に傳染して遂に全國の大修正を行ふに非ざれば止まざるは勿論、彼の地租輕减の論も一方に修正の實行さるゝを見て默止す可きに非ざれば益々火の手を強めて政府に迫ることならん此時に及んで其火元なる政府の處置は何れに出づ可きや最初に火を發したるこそ失策なれと獨り自から悔ゆることならんと雖も最早や其甲斐ある可らず然らば止むを得ず民論の望に應じて大に斷行せんか今度の修正に於てさへ國庫の歳入に三百七八十萬圓の减額を生じて他の税源より償はんとする程の次第なれば此上の修正輕减には其償を何れの處に求む可きや如何なる財略家と雖も其遣操算段には當惑することならん到底行ふ可らざることなれば今度の一條は詰り全國に不平の種を蒔て今後の施政をして益々困難ならしむるに過ぎざるは我輩の斷言して疑はざる所なり思ふに從來の難局未だ解けざるの今日に當り更に將來の一難を增す當局者の責任は益々重きを加へたりと云ふ可し或は今の當局者にして其地位を去ることありと雖も我輩は其地位の如何に拘はらず此難を釀したるの一事をば其人々の責任として永久これを忘れざるものなり