「富豪の要用」

last updated: 2021-12-25

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時事新報に掲載された「富豪の要用」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

富豪の要用

西洋文明國の事情を一見すれば人生の自由を貴び其同等同權を重んじ文物粲然として誠に文明の名に違

はざるが如くなれども其自由發達の極は貧富の不平均を生じて之を制するの手段なく貧者はますます貧に

陥り富者はいよいよ富を積み名こそ都て自由の民なれ其實は政治專制時代の治者と被治者との關係に異な

らず又各國互に利害を異にして權を爭ひ此權利を守るに最終の方便は唯兵力あるのみにして兵を揩オ武器

を作り多々ますます際限あることなし以上の事情は固より百千年の後まで持續す可きものに非ず到底數理の

許さゞる所なれども左ればとて今の人事の實際に於て貧富を平均するの術なきのみか強ひて之を行はんとす

れば唯社會の混乱慘状を買ふに足る可きのみ或は兵備を無益なりとして之を撤せんか國力忽ち微にして弱肉

強食の奇禍を免かれ難し故に文明世界今日の事態を評すれば到底行く可らざる道を行きながら一歩を退く可

らず後世子孫の事は唯天命に在りとして眞一文字に進行するものと云ふ可し

退て我日本の國情如何を視れば其むかし鎖國の時代には兵備は唯國内の不虞に備豫するのみにして人心穩

なれば必ずしも備の厚きを要せず殊に貧富平均の旨はコ川政治の秘訣にして貧も富も共に其極度に至るを防

ぎ人の精神の愉快不愉快はイザ知らず肉體口腹の一偏は至極安樂なりしに嘉永の開國こそ未曾有の大變な

れ國初以來の一切萬事を顛覆して今は我日本も文明世界の一國と爲り國を維持するの法も亦他の文明國の

例に傚ふて一意專心唯富強を謀るの外に道あることなし即ち人民の苦樂平等の旨には背きながらも國中に

抜群の富豪なかる可らず國家殖産の長計には有害無益ながらも強大なる兵備なかる可らず誠に多事なる次

第にして厭ふ可きに似たれども一國自立の爲めに免かる可らざる勢なれば左右を顧みずして唯進むの一方

あるのみ左れば兵備の事は本論の主眼にあらざれば之を他日に讓り爰に先づ富豪論を論ぜんに前に云へる

如く舊時の日本なれば國を鎖して世界の一方に蟄居し商賣上に取るも與ふるも得るも失ふも内輪の事にして

其間に出色の富豪を生ずればとて特に國の爲めに要用もなきのみならず弊害の一偏より見るときは富者の富

は却て貧者の爲めに不利なる場合さへなきに非ざるが故にコ川政府にては一國を視ること恰も一家の如くにし

て扨こそ貧富平均の政略を取り法令規則みな此旨に基くのみならず世教風俗亦その由る所を一にして仁

愛の主義を論ずる者あり因果の道理を説く者あり芝居小説軍談落語に至るまでも平均論を以て主眼とする

もの少なからず世々の習慣既に國民の性を成し甚だしきは富豪の人が自から其富を隱して故さらに貧乏を装

ひ以て貧者の情感を痛ましむることなからんとて用心するまでに至りし其事情を遽に一見すれば日本は恰

も經濟の極樂國に似たるのみか國の外に國なく桃源深く鎖して人の來るなければ實際の極樂國たりしと雖

も如何せん一朝國を開て外人の知る所と爲り互に通信貿易して自家の利益を求るの時勢に變じたる上は

復た内の極樂を樂しむ可らず商賣上の關係は内を離れて外に向ひ取るも與ふるも得るも失ふも最早や内輪の

事に非ずして外國を目的とするが故に苟も世界の競爭場裏に頭角を露はし自から進んで商戰を戰はんとする

には一處に結合したる實力の團體なかる可らず即ち其團體とは富豪家の大資本にして一國中に資本の纏り

たるものなき限りは商戰の不利論を俟たずして明なり商賣の資金は猶ほ兵士の如し一令の下に之を支配

すれば甚だ有力なれども個々に散ずるときは戰時の用を爲すに足らず富豪の號令は則ち大資本の運動を司ど

るものにして我輩は其資本のますます大にして號令のますます活溌ならんことを祈るのみ彼の貧富平均の説

も自から一説にして無下に抹殺す可きに非ずコ川の治世に於ては我日本社會に一種の美觀を呈して今尚ほ世人

の忘れざる所なれども凡そ内に愉快なるものは外に對して無力なり人事の定則なれば我輩は我立國の大義

を重んじて他を顧るに遑あらず斷じて平均の陳腐説を排して富豪維持の必要を主張する者なり今昔時勢を殊

にし今の日本は絶對の日本にあらずして外に對するの日本なればなり試に今日我對外の商賣法を見れば

航海の事あり移住民の事あり直輸出入の事あり海外出交易の事あり之を内にしては輸出に應ず可き製造

の事あり鑛物採掘等の事あり尚ほ指を屈すれば枚擧に遑あらず何れも日本國の商權を擴張するの根本事業

なれども之を企てんとして意の如くならざるものは唯資本不足の一事にして因循躊躇する其間に動もすれば

外國人の爲めに先鞭を着けられて後に瞠若たるの事實なきに非ず況んや今後條約改正の事成りて内地雑居の日

に至り外國人が資本を卸して内國の利を爭ふが如き場合に於てをや誰か能く之に應じて我商權を維持す可き

や我輩は單に公債證書諸株券の賣買に於ても只管内國の富豪に依頼するのみ世上の論客が國權云々を談ず

れば開口第一先づ國防の如何を言はざる者なし國防の兵備固より大切なりと雖も兵事に備へて商事に

備へざるは國防の能事終るものに非ず而して其商賣上の國防は唯富豪に依るの一法あるのみ我輩は國家の爲

めに謀りて兵備と商備と孰れか輕重なきを斷言するものたり               〔十二月十六日〕