「富豪の要用」

last updated: 2021-12-25

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時事新報に掲載された「富豪の要用」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

鎖國の時代を去りて開國の世に出れば立國の爲めに富豪の必要なるは軍隊の必要なるが如し軍軍は兵士を

集めて之を指揮し富豪は資本を集めて之を運轉し共に國權を保護し又發揚するの根本なりとは我輩の深く

信ずる所にして世間に異論もなかる可し此點より見れば富家の家産は主人の私有たるに相違なしと雖も其

效用は則ち國運の盛衰に關すること大にして自から公共の性質を帶るが故に之を處理するは取りも直さず一

種の國家事業なりと云ふも不可なきが如し家に幾巨萬の財産を私有するも限りある一家の衣食住に奉ずるの

外は特に所要あるに非ず殺風景に論ずれば本來無用のものなれども尚ほ孜々勉強して家道を經營するは既

有の財を保護して隨て又これを增殖せんとするの目的にして其增殖し得たる所のものは即ち國力の本源たる可

きが故に天下の富豪は恰も自から知らずして國の爲めに心身を勞する者と云ふ可し然るに今日の實際を視察

するに金滿家と云へば兎角世間の注目する所と爲りて生計不如意の小民等が竊に之を羨むのみならず或は

上流士人の輩にして樣々の説を作し貧富不平均の非を鳴らして暗々裡に貧者の歡心を求め甚だしきは由て以

て自から爲めにせんと欲する者さへなきに非ず畢竟この流の人々は遠く國家の利害を思はずして近く眼前の

私情に迫られ立國の大機關たる富豪の要を忘れたる者なれば其所言時として憐む可きものあるも事物の

輕重より論じて耳を傾るに足らず我輩は天下の識者と共に飽くまでも之を擯けんと欲する者なれども爰に怪

しむ可きは富豪その人が動もすれば不安の思ひを爲し何か世間に憚る所あるが如くにして十分の運動を逞

ふせざるの一事なり或は其人が節儉自から守りて身に奉ずること薄きが如きは必ずしも世を憚るが爲めに非

ず本人の固有に存する德義として稱す可きなれども公然たる商賣の事に就ても其事柄の餘り著しくして世

間の耳目に觸れ又これを驚かす可きものは利益の如何に拘はらず先づ控目にして之を看過すの風あるは甚だ

解し難し德川流の治風は既に過去に屬して今日は是れ優勝劣敗の商界に入り商家の活動を妨る者なきこそ

文明の恩澤なれ苟も法律の許す限り德義に愧ぢざる限り一毫の利益をも空ふせずして活溌に立働き縦横

無盡に運動して資産を增殖するは商人の本色なるに實際に於て尚ほ然るを得ざるは何ぞや我輩の特に富豪家

に向て注意を促さんと欲する所にして竊に其事情を察すれば主人自から知らざるの罪と云ふの外なし前節に

世上一部分の士人は富豪を視て立國の大機關たる所以を忘れたりと云ひしが之を忘れたる者は此種の士人のみ

ならず富豪自身も共に之を忘れて扨こそ自から遠慮して自から運動を妨ることならん自から知らざるの甚

だしきものと云ふ可し抑も文明の世界に國して商賣の競爭場裡に打て出でたる上は國の爲めに富豪の必要な

るは軍隊の必要なるに異ならず即ち富豪のますます富むは兵員のますます集まりて一隊の實力を增すが如し

又富豪富むと雖も實際に自から費す所のものは僅に資産所得の一小部分に止まり他は皆商賣上に活用して商戰

の働を爲し其戰の成敗は直に自國の勢力を輕重するものなれば私有の資産にてありながら其效力は則ち國有

に異ならずとの道理は前段にも述べし通りにて之を爭ふ者はなかる可し故に今の富豪にして一度び活眼を

開て此邊の道理に心付きたらんには釋然として始めて自から其身の輕重を知り又何者に向て遠慮し何事に就

て會釋す可きや青天白日唯自家の利益を経營す可きのみ今の文明の程度に於て人間世界に金力の貴きは智

力學力に異ならず一國民として學識ある者は啻に其身の榮譽のみならず外に對するの效力も亦甚だ大にして

一物の發明一事の工風も都て自國の光を耀すの媒介なるが故に同國同胞の身と爲りて考れば其學力智識

のますます高尚に達して其人のますます有名ならんことを祈らざる者なし世界普通の人情なるに然るに某國

の人民は此人情に外れ學識平均の説を唱へて其學者の抜群絶倫を悦ばず其本人も亦も周圍の物議を憚りて言

論を慎み發明工風をも意の如くすること能はずと云はゞ誰れか其奇に驚かざらんや然らば則ち富家の主

人が自から立國の大機關たるを忘れて徒に貧富平均等の愚癡論を憚り爲す可きを爲さずして因循姑息するは

單に自家の利益を空ふするのみならず國家百年の大計を餘處に見るものと云はるゝも辨解の辭なかる可し人

或は云く前説誠に然りと雖も富豪の私有既に國有の性質を帶るとあるからには主人自から之を處理する

も又は他人に托する〔も〕自他の間に差別ある可らざれば寧ろ私有の名を棄るに若かずなど輕率に議する

ものもあらんなれども我輩の云ふ國有の性質とは私有資産の活働を以て能く國家の勢力を助る其成跡を見て

假に之に國有の名を附したるのみ資産その物に至りては紛れもなき私有にして他人の干渉を許さゞるのみか

其取扱ひに深切にして巧なるは主人の右に出る者ある可らず如何なる事情あればとて無縁路傍の人をして自家

 の内部を窺はしめんや富豪の家を治るは專制獨裁の君主が國を治るよりも尚ほ嚴なり一切萬事主人の方寸

に在て存することゝ知る可し    〔十二月十七日〕