「軍用鐵道と商用鐵道」
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時事新報に掲載された「軍用鐵道と商用鐵道」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
我國の地勢は彼の歐洲大陸の如く列國の土壤相接するにあらず四面環海の嶋國たるは猶ほ
英國に彷彿たり國防の策、海陸いづれに出づ可きやは軍學者の議論一ならず又爰には細論
せずと雖も窃に國情を考ふるに西洋學術の輸入するや醫術と兵學とに始まりたる關係より
して今も猶ほ拔群の進歩を著はすものは醫兵の二術を然りとす中にも兵學は日本固有の陸
戰法ありて夙に精妙に達したるが故に洋流の陸軍學を會得採用するも亦頗る速にして漸く
好成績を奏したるより此嶋國にも拘はらず歐洲列國對峙の兵略をして不知不識の間に如何
に浸染せしめたるやは蓋し何人も之を想像するに難からざる可し左れば海軍の進歩は割合
に遲鈍にして數十年の後に至らざれば完備すること能はず之を急にせんとすれば財政の堪
ふる所に非ざるが故に到底國防を托するに足らずとて專ら陸軍に重きを置き爲めに鐵道の
設計上にも戰時の軍用法を注入するの止むを得ざるに至りたるが如し
又全國の地形を相するに山岳重疊亘連し南北の兩海岸は斜下して平坦となり都市も概ね海
濱に近接するの國土なり斯る國土に鐵道を敷設して其利uを収めんとするに國力を揄チす
るの計としては宜しく沿海の地を第一とす可きこと實利上覩易きの談なれども海防の不完
備なるより線路も自から山間に隱蔽せざるを得ざる譯にして爲めに工費多く都市少なく収
uを傷け國力を損すること實に莫大ならんとす未來未定の戰爭に備へんとして百代永遠の
不經濟を忍ぶも亦是れ國防に陸軍を主とするの結果と云ふ可きか
國防を海軍に托せんとするも俄に行ふ可らず陸軍に依らんとすれば鐵道も亦軍用たらざる
を得ずと云ふと雖も國力の程度と國情の如何は須臾も之を忘る可らず今我が鐵道敷設法は
即ち右の軍用論者が國有官設を主張したるの結果と云ふ可きものにして爲めに經濟の旨に
反し國帑を薄利若くは損耗あるの途に消費するに至るもの甚だ少なからざるが如し今や朝
野鞠躬偏に國力振興を策せざる可らざるの急機に際し國帑にもせよ民資にもせよ莫大の資
本を以て不利の業に從はんとするは實に容易の談にあらず知らず各地方の鐵道論者は果し
て其地方の爲めにすると共に眼を全國の經濟上に注ぐ者なるか、全國の租税を以て一地方
の道路橋梁を設くるの態に陷らざる可きか我輩の窃に憂惧に堪へざる所にして寧ろ斷然そ
の方針を改め鐵道は私設を奬勵して商用一方以て國力の攝iを謀り而して國防には海軍を
主として着々軍艦を製造し海務を整備せんことを欲するなり即ち前號に記載せる英國の筆
法に鑑みて之に傚ふこそ經略の本則なる可しと信する者なり論者は海軍の完備は財政の俄
に許さゞる所なれば其間國の安危を如何せんとて〓々措く能はざるが如くなれども是れ唯
見識を以て判斷す可きことにして苟も國是に進取政略を取る限りは海軍の振興せざる可ら
ざるや言を俟たず况んや他日歐洲の平和を破ることありとせんに其際我國に必要を感する
者は恐くは軍用鐵道に非ずして軍艦ならん又况んや軍艦は恰も海上の鐵道とも云ふ可く平
時には通商貿易の進捗を助くるの功さへ少なからずして是れぞ眞に經濟と軍事を兼ぬるの
良鐵道なるに於てをや左れば軍艦製造は海防の急と云ひかたがた以て十年の功を五年四年
にも急ぎ鐵道は固より商用の目的なれば軍事の考を外にして之を敷設するに專ら地理の平
易なるを擇び都市貫通の旨を忘れず唯商賣上の利を主とするのみにして若しも一旦の變に
不安心とあれば海軍の力を以て保護す可きのみ是れぞ嶋國獨占の利uにして歐洲大陸人な
どの知る所に非ず日本國が東洋の英國たると否とは實に此邊の方針如何に由りて决するこ
となれば當局者は目下の陸軍の進歩に拘泥することなく各地方鐵道論者も亦一地方の小利
害に汲々たらざらんこと切に希望して已まざるなり(畢)