「内海に特別航則を設く可し」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「内海に特別航則を設く可し」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

内海に特別航則を設く可し

我軍艦千嶋が英國郵船ラヴエンナ號と衝突して七十餘名の乗組員諸共に沈没したるは日本人民の深く遺憾と爲る所なり此事件に就ては彼の當局者に於ても特に注意する所ありて事後一月も經過せざるに東京に近き橫濱の領事廳に海事審問を開き其陪席判事には技術専門の軍艦の艦長士官并に商船の船長等を列席せしめ數回審問の末、判決を宣告したり其文に據れば英船は正當の航則を守りたるものなるが故に船長は無罪なりと云ふに在り凡そ裁判に於て一方が無罪なれば他の一方は言はずして自から有罪なるの例も少なからざれば此判決に從ふときは衝突の失策は彼に在らずして我に在るが如き感覺なきに非ざれども外國との交渉事件に時として偏頗の處置を免れざるは何處も同じ情勢なるが故に彼は彼の裁判に於て彼船長を無罪と認むるも我は我正當公平の軍法會議を公開して(我國の軍法會議は從來公開せざるの例なれども西洋諸國にては公衆の傍聽を許すこと通例なり)我艦長の處置の當否を審査判決すること當局者の責任なる可し特に目下海軍省の問題に就ては世上にも云々の説多き折柄なれば少なくとも其會議の詳細を世に公にして一日も早く人心を慰せんこと我輩の希望に堪へざる所なり

右は別問題として聞く所に據れば從來外國船の我内海を航するや往々無理なる航路を取りて之が爲めに屡ば他船をして避けしめ又は漁舟群衆の中などを通過して覆没破壊せしめたるの例さへも多し單に不時の災難として看過す可きものにあらず畢竟斯る不都合の生ずるは我内海に特定の航則なきが故なりと我輩の常に遺憾に思ふ所なり本來内海は讀んで字の如く眞の内海にして之を一家に喩へば庭前の泉水に異ならず唯便宜の爲めに他人の通過を許し置くまでの事ならば主人の都合に由り當分の内通行無用の札を立つるも他人に於て彼れ是れ云ふの權利はある可らず若しも一旦かゝる禁制を定むるときは外船の西より東に來るものは氣の毒ながら薩摩沖を經て四國沖を迂回するの公道に由るの外なかる可し然れども斯の如き窮屈の處置は公共の便利に少なからざる關係を及ぼして主人の好まざる所なれば爰に嚴重なる特別航則を設け苟も内海を通過する船艦は内外の區別なく確く之を守らしむること適當の處分なる可し抑も我内海には屈曲の多き處あり嶋嶼の散在する處あり、海幅の殊に狭き處あり、潮流の急激なる處あり、漁舟の群集する處あり、海底深淺の差、遽に變ずる處あり千差萬別にして航海者は注意に注意を加ふ可き處なり而して航則を定むるにも精粗の別あれ共先づ其大體を云へば一千噸以上の船舶は晝間は七八ノツト日没後夜間は五六ノツトの速力と定め殊に前述の如き難處を經過し又は兩船相遇ふときは更に速力を遅緩ならしめ又船中に於ては甲板上に在る見張番の數を二倍し通常二人のものなれば内海通過の間は四人と爲し四人なれば八人と爲して一層見張に注意せしめ又楫取の人數も增して臨時急遽の令に應じ得るの用意肝要なり其他舷燈は殊に光力明透のものを用ひしむる等最も大切なる可し陸上の市街に於てさへ車馬の往來には自から法則ありて一定の速力を超ゆることを許さず又曲角、橋梁等の塲所に至れば進行を遅緩ならしむる等夫れ夫れの定めあることなれば況して危險の多き海上の船舶には取締の規則を欠く可らず彼の蘇士運河の如き嚴重の航則あるは世人の遍く知る所なるに今日に至るまで我内海に此設なかりしこそ我輩の遺憾とする所なれ

總て海上船舶の衝突は航海者の最も恐れ且戒むる處にして外國の水夫中に行はるゝ左の唱歌の一節を見ても其警戒の情を見るに足るべし

Both in safety and in doubt

Always keep a good look-out;

In danger, with no room to turn,

Ease her! --stop her!-- go astern!

唯人情安きに慣れ易く久しく危險に遇はざれば次第にづるくなりて自然油斷の情を生じ遂に不虞の出來事を見るの常なれば我内海に特別航則を設け航海者をして警省の念を起さしむるの一事は何人と雖も異議なき所なる可し我輩は當局者に向て一日も早く其制定を希望する者なり