「禮儀を忽にす可らず、衆議院の休會」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「禮儀を忽にす可らず、衆議院の休會」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

禮儀を忽にす可らず、衆議院の休會

日本人は貴賤上下の別なく禮儀を重んずるの心淺からず其日常の坐作進退如何にも優美高尚にして眞に君子の風采を存せりとは世界一般の公評にして殊に親から我國に渡來して國民生活の實況を目撃したる歐米の漫遊者などは何れも口を極めて日本の風俗の美を稱賛せざるはなし人民禮を重んじて粗暴野卑ならざるは文物進歩の明證なれば我國民が此點に於て世界に冠たるは無上の榮譽にして外國に對しても誇るに足る可き事柄なりと我輩の信ずる所なるに然るに爰に不都合千萬と申すは西洋人が斯くまでに我國の人文優美を賛稱するにも拘はらず主人たる日本人は却て此邊に冷淡にして自家特殊の美風を度外視するの一事にして恰も今日に得たる名譽を長くせんとするの念なきものゝ如し抑も王政維新の一擧と共に古來の制度習慣は大概皆破壊の難に遭はざるなき其中に彼の禮儀作法の一事も實際に無用なりとの攻撃を免かれず男子身を立てゝ世に處するに區々たる禮節は取るに足らずとて世間一般に之を顧る者なきのみか却て故さらにこれを排斥し偶ま禮讓の士人を見れば目するに因循舊弊の名を以てする程の有樣なりしかば其風に化せられたる今日の若年輩が都て禮法に暗くして平常の言行兎角に殺風景なるも亦怪むに足らず例へば彼の帝國議會府縣會等にて議員の擧動甚だ穩ならず動もすれば亂暴鄙陋に陥らんとするの模樣あるも亦是れ禮儀排斥論の結果にして日本人の〓中禮儀を重んずるの念慮は次第に薄らぎつゝあるの一證として見る可し左れば從來歐米の漫遊客などは多くは我國の老人若しくは婦女子の言語動作を見聞して其鄭重優美なるに感服心醉したるものならんなれども若しも其眼界を轉して我壮年の男子殊に書生の生活を經たる人々の實際を目撃したらんには必ず其粗野殺風景なるに驚くことならん今の壮年輩には外情に通じ又外國の語を語る者も少なからざるに其日常は則ち依然たる日本書生にして外人の日本に對して稱揚する所は書生にあらずして却て因循舊弊なる老人婦女子に在りと云ふ書生その人の身と爲りては竊に赤面の情に堪へざる可し或は禮儀は人間社會の虚飾にして是が爲めに貴重なる時と勞とを費すは惜む可し世の文明進歩して實利主義の愈よ行はるゝに從ひ禮儀は自然に衰滅するに相違なしなど説をなす者もあらんかなれども甚だしき謬見にして禮儀と實利とは決して相撞着することなきのみならず禮儀は即ち社會の實利幸福を進る一大勢力として認めざるを得ず若しも世間の人が一般に禮儀を顧みず誰も彼れも其意中に思う所を明らさまに公言して互に遠慮なく心の欲する儘に事を行ひたらんには社會の秩序は一日も保つ可らざること智者を俟たずして明なり畢竟するに禮儀は猶ほ車輪の廻轉を滑にする油の如し此油ありてこそ始めて人事の機關も故障なく運動することなれ殊に近來は外交次第に開けて彼我人民の相接することますます頻繁になるに就ては此際唯日本在來の古禮式を知るのみにては實際に事足らざれば尚ほ進んで外國の交際社會に行はるゝ作法をも一通り心得置くこと肝要なる可し然るに我壮年輩は既に自國の禮法をば無用なりとて之を放棄し去り其一方に未だ外國の禮を學ぶにも至らず正に兩者の中間に在て恰も無禮無作法の境遇に彷徨する者にして此有樣を以て押し行かんには世界第一禮儀國の評判も遠からずして日本を辭し去る可し遺憾に堪へざるなり但し我輩が斯く禮儀論を論すと雖も彼の身心の發達尚ほ未だ充分ならざる幼年の小學生などに向ひ行儀作法の教を嚴にして其運動を妨るが如きは大に取らざる所なり別に論あり他日に讓る

衆議院の休會

衆議院は去る十二日を以て二十六年度の豫算案を議了し二高等中學校費を除くの外は悉く豫算委員會の査定を可決して政府同意を要めたり越えて十六日に至り井上臨時總理大臣は他の閣僚と共に議院に出席して修正案に對する政府の意見を演べ既定の歳出と法律の結果とに依る費額は議院の節減不當にして到底政府は同意を表する能はざる事を斷言し衆議院の再考を求めたり議院は是に於て議事日程を變更し種々討議の末、修正案に對しては今更別に再考を要せざるを以て斯儘再び政府の同意を要むべしと議決し又々修正案を政府に送りて其同意を求めたり

斯くて昨日に至り衆議院の開會するや第一に政府の再覆牒を議塲に報告したり其趣旨は憲法第六十七條の歳出に關しては曩に衆議院の要求に不同意を表したるに議院は更に政府の再考を求めたるも政府は斷じて不同意を表するの外なしと云ふにあり此報告に接するや議塲に一の動議現はれ其趣旨は豫算案に付衆議院が諸般の費目に修正を加へたるは我國の民度を斟酌し與論を代表したる正當の所為なるを以て政府が到底是に同意せざる時は立憲政體の本旨に基き斷然決する所無かる可らず即ち議院の意見を容れて修正案に同意を表するか若又議院の所為不當とならば宜しく是を解散すべし然らざれば政府自ら勇退すべし之に關して熟考の時を與へんが爲め五日間を期して議院を休會すべしと云ふにありて此動議は大多數を以て可決され彼の豫算修正案は又々政府に送られ議院は直ちに休會したり豫算案に關して政府と議院の衝突は次第に其困難を增し今後如何にして其局を結ぶ可きか容易に推測す可からざるの有樣を呈出せり

衆議院は政府が再三不同意を表するにも拘らず飽まで其初志を貫かんとし遂に休會して政府の熟考を促がすに至りたれども政府も初めより熟慮して此不同意を唱ふる事ならんなれば五日間休會の議決を以て容易に政府の意を變ずべしとも思はれず現に昨日政府は右決議の報に接するや直ちに覆牒を議院に送り之に就きては終始一貫更に異動なき事を斷言すと答へたり斯れば之に依りて政府の意志を動かす能はざるは既に明白にして議院も初めより斯くあるべしと知らざるには非ざりしならん左れば此休會の必要は政府の熟考を求むる時間に非ず此時日を利用して議院自ら其仲間の整理を爲さんとするものなりとの疑ひなきに非ず左れど今日に當り各議員の意見は自ら決定し居りて今更如何ともす可らざれば實情を知らざる者の疑たるに過ぎざるなり故に此五日間の休會は唯だ其意見を貫かんとして一種の新手段を施したりとの名を得るのみにて毫も政府の意を動かす能はず又議員中の模樣も別に變更する所なく僅々三箇月の開會期を此上更に短縮して他の議事に時日の寡きを感ずるのみにて豫期の結果を見る能はざらん事を恐るゝものなり