「閣員の責任は終始を全うす可し」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「閣員の責任は終始を全うす可し」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

閣員の責任は終始を全うす可し

〓般來豫算の議事に關し政府と議會との間に軋轢の端を開き次第に其熱を〓して〓に議會より上奏に及びたる折柄、端なく帝室より詔勅を下賜されたり盖し此勅命は辱なくも叡慮より出でたるものにして政府と議會との紛爭に關係なきは明白なれども偶然にも此時機に發して然かも聖意の優遲切實なる曾て其例を見ざる程のものなえるが故に一紙の聖勅は恰も雙方の雲霧を開き忽ちに春風和氣の新天地を出現せしめたるこそ難有き次第なれ即ち日本の臣民が帝室に對し奉る至〓にして此上は政府も議會も共に從來の行掛りを一掃し只管聖意を奉體して所謂和衷協同の實を竭す可きこと勿論なれば流石に粉〓を極めたる豫算の問題も雙方の間に折合いて成立を見ることならん誠に目出度き次第なれども翻て熟ら熟ら事の樣を案ずるに目下の紛爭は偶然の勅命に由りて幸に雲消霧散に歸したれども其紛爭を釀したる年來の病根に至りては〓して消散したるに非ず之を喩えば熱病の患者に水浴を爲さしめたるに異ならず一時熱の冷却することは妙なれども病は之が爲めに癒えたるに非ず再發の患恐る可きのみか一時の冷却は却て熱を上昇せしむる掛念さえなきに非ざれば今後の經〓は大に謹まざる可からず即ち來る十一月の第五議會の有樣如何は大抵想見る可くして局外〓〓我輩の眼を以てするも事の容易ならざるは今より心に關する所なれば〓して多年の經驗に富み實際の局に當る伊藤首相の胸中には必ず成見なきを得ず左れば聖勅の爲めに幸に目下の難を目出度く經〓したれども扨今後の始末をば如何せんと云うに昨今世間の一〓に首相は双方の折合、豫算の成立を好機會に功成り名〓げたるものとして自から其地位を去り相替らず舊時の黒幕内に隱るゝことならん内閣の俗にして煩わしきは黒幕の閑にして樂しきに若かず、隱居の無責任にして權力あるは當主の心配多くして不如意なるに優る、斯くて其隱顕出〓悠々歳月を消する間に政府と議會と衝突するは必然の勢にして〓に始末の付かぬ塲合に差〓四方八方よりの勸告推戴に餘儀なくせられて乃ち又再び出ることならんなど恰も其心事の奥を穿ちたるが如くに傳えるものあれども此風〓の如きは畢竟首相〓素の〓〓より推測したる想像談にして我輩の信ぜざる所なり思うに今回の聖勅は偶然に發せられたるものとは云え苟も〓弼の任に在るものは其責に任ず可きこと勿論にして殊に首相の如きは議會に公言して自から聖意を奉體して事を處する旨を誓言したることなれば今回に限りては終始その責を全うして首相たる身分としては聖明の知〓に答え奉り臣民たる一人として天下萬民と共に忠誠の至〓を空うせざらんこと〓して疑を容る可からず依て一言風〓の妄を辨ずるものなり