「傳染病研究所の補助費」

last updated: 2019-09-29

このページについて

時事新報に掲載された「傳染病研究所の補助費」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

傳染病研究所の補助費

北里博士の傳染病研究所補助費の建議案は政府の採納する所と爲り内務省より追加豫算案として更に議會に提出して兩院共に異議なく通過したるに付ては博士の事業もこれより面目を改めて次第に盛大を致すことならん既に今日に至るまで芝の公園地内に研究の端緒を開き彼の新製のチベルクリンも製造し了りて之を動物に試験して違はず、二月上旬より肺患者に施して昨今は最早や三週を經過し成跡尚ほ未だ詳ならざれども今日までの處にて博士の目的に齟齬したる者とてはなく施療の爲めに發熱せず煩悶せず何等の苦痛を覺えずして病症は少々づゝ輕快に赴くが如しと云ふ抑も黴菌學の事たる〓に數年來の新發明にして特に今回新製のチベルクリンの如きは世界中に其製法用法を知る者なく唯これを知る者は發明の元祖たる獨逸の大醫コツホ氏以下三五名の高足弟子にして其一名は即ち北里柴三郎氏なれば目下この學を研究して實地に施すものは西洋にて獨逸、東洋にて日本の二國あるのみ左れば黴菌學の區域は固より肺患療法のみに止まらず凡そ人身體の甲より乙に傳染す可き性質のものなれば是れまで傳染病外に數へられたるものにても之を豫防し之を治療するの目的にして其試驗上に着々實効を示し遂には全世界の醫學を一新せんとするの勢あれども何分にも事柄の大なるに拘はらず發明の最も新にして知る者の最も少なきが爲めに尚ほ未だ廣く信用を博するに至らず實物に徴して理を明にすれば信ずることなからんと欲するも得べからず左ればとて百千年來研きに研きたる此醫學が黴菌の一新説を以て其根底より動搖せんとは人情に於て疑はざるを得ず盖し火器の發明に際して弓矢を棄るに躊躇し汽車の既に走るを見ながら尚ほ馬車の利を忘るゝこと能はざりしは歴史の語る所のみならず近く我醫道の沿革を見ても漢醫界に洋醫の入ること頗る困難なりしは今尚ほ故老の記臆する所なり恰も人情世界の約束にして怪しむに足らずと雖も如何せん有形の眞理原則の中には人情の運動を許さず今日の黴菌學その發達は尚ほ幼稚にして大に鳴らずと雖も方向は既に巳に明白にして爭ふ可らず之を從前の醫學に比較して一言以て其異なる所を評すれば前者は發症を見て治法を處したるに黴菌學醫は一歩を進め其症を發する所以の原因を捕へて之を制せんとするものなり或は黴菌學者と雖も今正に研究の最中、偶然の間違よりして一朝に連城の璧を得ることあれば千辛萬苦數年の勞を空ふして失望に終る事もあらんいよいよ其目的を達して定めて新醫術の基礎を立てゝ世界に公言し以て舊醫を壓倒し了るの日は我輩これを知らずと雖も人事の進歩駟馬に鞭つの今日案外速成を見るやも亦知る可らず兎に角に醫學社會の人々は斷じて情を離れて理に就き他年一日今の漢醫流の境界に陥るなからんこと我輩の切に勸告する所なり啻に醫士その人の利害のみならず我大日本國の醫道をして文明諸國の競爭塲裡に先鞭を着けしむるの機會は正に今日に在り我輩は一刻の光陰を惜しむ者なり