「郡司大尉の千嶋行に就き海軍當局者に望む」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「郡司大尉の千嶋行に就き海軍當局者に望む」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

郡司大尉の千嶋行に就き海軍當局者に望む

今回郡司海軍大尉の千嶋行は實に近來の快事にして日本男子の氣を壯にするに足れり從來内地の人民にして千嶋に行きたるものなきに非ざれども大尉の如き海事に經驗ある人が先導者と爲り一團百何十名の同士を結合して事を企てたるは實に今回を以て第一着と稱す可し其事業の結果如何は豫め言ふ可らずと雖も只この一擧以て全国の人民に海の内外に對する移住もしくは企業の心を奮起せしむるの效あるは我輩の斷じて疑はざる所なり左れば此事を聞召され辱なくも天皇皇后兩陛下より金圓を下賜せられ又同胞の有志者も續々義金を投して之を助けんとするものあるも畢竟その事の關係する所少なからざるが爲めにして單に大尉一身の壯擧を嘉するのみに非ざるを知る可し扨大尉の志す所斯くの如く壯にして且その事の關係少なからざるは右の如き次第なりと雖も爰に我輩の眼を以て其行を見れば竊に危險の情に堪へざるものあり聞く所に據れば今回の行は幾隻の端艇を艤し同行百何十人のものは一同これに乗組み沿岸を傳ひ隨所の港灣に立寄りて遂に目的の地に達する趣向なりと云ふ而して其端艇は大尉の工風に成りたるものにて萬、覆沒等の患あらざるのみか同行の百何十人は何れも數年間海上の經驗ある海軍の兵卒なれば決して危險の心配はなき筈なりと云へども豫め測る可らざるは天氣の變化にして若しも海上に於て不意に〓風激浪の襲ふ所とならば如何す可きや假令ひ覆沒の患は免るゝも一般の端艇如何でか風浪に堪ふ可けんや數隻の同舟、海上に散亂して互に形跡を失ひ或は數十日間大洋の中に漂泊するが如きことあるやも知る可らず然るに端艇内に貯へ得べき食料は素より數日の量に過ぎざるが故に若しも不幸にして斯る天變に遇はゞ幸に魚腹に葬らるゝの難は脱するも遂に饑餓に倒るゝの患なきを期す可らず斯る事例は往々見る所にして獨り我輩の掛念のみならず海上の事に慣れたるものゝ一般に危ぶむ所なり若し萬一にも斯る出來事あるに至らば單に大尉一行の不幸に止まらず之を小にしては日本の海軍の爲めに良士卒を失ひ之を大にしては今正に勃興せんとしつゝある企業心を挫て全國の人心を沮喪せしむるものにして其影響する所決して少小ならざる可し依て我輩の希望する所は我海軍省にて一隻の小軍艦を派し其一行を護送せしむるの一事なり日本の海岸を巡航して一般の人民を保護するは海軍平素の務にして千蝙の如きは殊に時々巡航の必要もあることなれば幸ひ此機會に護送艦を派し一行の到着を見屆くるは適當の處分なる可し或は當局者の邊には海軍の籍に在る大尉の行を送るとありては何か部内の人に私するの嫌もありとて世間の思惑如何を掛念するが如き事情もあらんかなれども今回の事は決して海軍々人としての行に非ず即ち全國の企業心に關係して既に兩陛下に於ても其擧を嘉せられ又一般の同胞に於ても等しく同情を表する所のものなれば國家の海軍が國家の爲めに此種の企に對して保護を與ふるは素より適當の處分にして一般の公衆は之を批難せざるのみか寧ろ賞贊せんこと我輩の疑はざる所なり又聞く所に據れば今回の企に就て最も苦しむ所は一行中一名の醫師なき一事なりと云ふ百何十人の一行が途中に非常の危險を冒して然かも遠隔異候の地に移住するに一人の醫師を得る能はずとは其困難察す可くして傍觀す可きに非ざれば是れ又海軍省より一名の醫官を貸與して然る可し聞く大尉一行の出發は數日の内に在りと云ふ我輩は海軍の當局者が速に議を決し機會を誤まらずして適當の處置あらんことを切望するものなり