「元老院の善後策」
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時事新報に掲載された「元老院の善後策」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
元老院の善後策
説に云く第四議會の始末を概評すれば民黨は大勝利を得て政府は大失敗を取りたるものと云ふ可し民黨は一瀉千里の勢を以て進み政府は一壘を棄て二壘を破られ三壘四壘遂に城下の盟をなしたると同樣なり人は元老内閣を以て大技倆あるものと想像せしに其結果の斯くまで不首尾なりしに就ては頗る意外の思をなして延いて其人物の輕重を議するに至る可しとて一概に論じ去る者あれども是れは少しく見解を誤りたる談にして山縣内閣も松方内閣も伊藤内閣も其對議會の政策は詰り同一の軌道を進行したることなれば其成績も亦類似の失敗を取る可きは自然の勢にして毫も怪むに足らざるのみか此軌道の外に出でざる限りは何人をして局に當らしむるも遂に美觀を呈す可しとは思はれず盖し其同一の軌道とは藩閥の功臣輩が互に竊に意見を異にしながら年來の情實に制せられて無理に結合し議會に對しては政府の地歩を譲らずして民黨を鎭撫せんとするの政策なれども之を我憲法の寛大自由なるに徴し又これまで議塲に於ける事跡に照しても所詮左る好都合の望む可らざるは再考を俟たずして明なる可し故に山縣内閣は第一期に六百五十萬圓を削減して折合ひたれども實は當時民黨とても國會開設早々解散も如何なりとの遠慮よりして穩かなりし意味もある可し又伊藤内閣は四十九萬圓の削減と政府改革の豫約とによりて折合ひたれども是亦民黨が詔勅に恭順して目を瞑したるの結果に外ならず若しも第一期に初期と云へる遠慮なく第四期に詔勅の天賜なくんば山縣内閣も伊藤内閣も盖し松方内閣と同樣解散の外に道なかりしことならん民黨の極意は唯維新の現政府を困却せしめて首尾能く參れば取て代るの一事に在るのみ政費削減など稱する黨議黨論は皆その口實に過ぎざるなり然るを政府は恰も其極意を問はずして其口實に係はり或は部内の整理改革と云ひ或は地價修正民力休養と云ひ正面の政略を以て民論の裏面を鎭撫せんとす酒客の所望に任せて呈するに牡丹餅を以てするが如し此客亦能く餅を喰ふと雖も唯これを喰ふのみにして到底酒を得ざれば滿足する者にあらず牡丹餅の馳走は偶ま以て其輕侮を買ふに足る可きのみ左れば伊藤内閣が政府改革の豫約を以て一旦を彌縫したれども第五期には又も破綻を生ぜんこと殆んど疑を容ざる所にして又何人が之に代ればとて他策ある可らず既に大詔を煩はし奉りたる上は之より以上將た如何なる調停の法あらんや唯困却なるは國家と人民とにして年々歳々紛々擾々の間に動搖せらるゝは實に忍ぶ可らざる次第なれば元老諸氏に於ても篤と前途を熟考し大に思案を決せざる可らず是れぞ内閣策の最も重大なるものなる可し
或人の説に元老一致して武斷政治を行ひ眼中議會を見ずして真一文字に國利民福の增進を圖る可しと云ふ抑もこの武斷政治と云へる文字は歴史上往々見る所なればイツしか人の胸裡に浸染して一難ある毎に動もすれば快刀一揮亂麻を絶たんとするに至ることなれども實際は決して容易の談に非ざるのみか其これあるは寧ろ當然の出來事と云ふ可きものにして例へば英のクロンウエル卿のナポレオンの如く非常の大豪傑が非常の大騒動に乗じ赫々たる勲功を奏して既に紛擾に倦みたる人心に投じてこそ始めて行はる可きことなれ又我國にては王政維新の際薩州の嶋津公若くは長州の毛利公が假に非常の大豪傑として而して第二の幕府を作るの決心を以て運動したりとせば或は武斷の望もなきに非ざりし歟なれども夫れさへ叶はずして明治政府を現出したり爾來世局の進化殊に著るしく泰平の昭代に文明の春を迎へつゝあることなれば一任如何なる豪傑あるにもせよ又政府と議會との間に多少の衝突あるにもせよ今に至りて武斷などゝは思ひも寄らざることなりと我輩の敢て明言する所なり左れば時勢は武斷政治を許さゞると同時に元老諸氏の間抦は前節に云へる如く心の底より釋然として政治上の所見を一にすること能はず即ち世に云ふ政府部内の硬論派、軟論派にして到底〓び立つ可き性質のものに非ず唯維新の元老と云へる名稱の下に結合して纔に内閣を組織し隨て其折合の爲めに互に思ふ所を抂げて不滿不平を押包み俗に云ふ成らぬ堪忍を堪忍するは毎度の例なれども其困難は口にも筆にも述べ盡す可き限りに非ず自信を抂ぐるは夫婦の間にても尚ほ且つ易からずして時として離婚の沙汰さへあるに元老が如何に相互の利益の爲めなりとて永く此困難に堪ふ可きに非ず假令ひ或は之に堪へて尚ほ此上に一時を彌縫せんとするも其彌縫策は國會前の政府に行はる可きのみ今日は即ち然るを得ず内部彌縫の痕跡は忽ち外に發露して政府全體の弱點を示すに過ぎず元老内閣の維持法究したりと云ふ可し然らば則ち元老の末路は爰に斷絶す可きやと云ふに決して然らず我輩説あり之を次に開陳せん(以下次號)