「コレラの評判」

last updated: 2019-09-29

このページについて

時事新報に掲載された「コレラの評判」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

コレラの評判

昨年は殆んどコレラの聲を聞かず先づ以て無事に經過し來りたるは誠に喜ばしき次第なれども明治十年より一昨二十四年までの既往を回顧すれば左記の表の如く患者の總數四十六萬八千餘にして死亡三十一萬五千餘に達し實に夥しき慘毒を流したるを見るなり

患者 死亡

 人 人

明治十年 一三、八一六 八、〇二七

同十一 九〇二 二七五

同十二 一六二、六三七 一〇五、七八六

同十三 一、五七〇 九八九

同十四 九、三二八 六、一九七

同十五 五一、六三一 三三、七八四

同十六 九六九 四三四

同十七 九〇〇 四一五

同十八 一三、六九三 九、三〇〇

同十九 一五二、七〇〇 一〇五、八九八

同二十 一、二二八 六五四

同廿一 八一一 四六〇

同廿二 七五一 四三一

同廿三 四六、〇一六 三五、二二一

同廿四 一一、一四二 七、七六〇

合計 四六八、〇九四 三一五、二三一

向後とも衛生の注意ますます愼密ならんことこそ願はしけれどもコレラの果してコレラなるや否やは醫學上充分の〓査を遂げて始めて斷言し得可きものにして世俗の見るが如く夏季吐瀉して死亡するもの必ずしもコレラにあらず昔は霍亂と唱へて此種の病氣は屡々なりしかども人敢て傳染の危險を憂へざりしにコレラの名を輸入したる以來世に霍亂の患者を出すこと甚だ少なく一切の吐瀉は都て是れ危惧の種に非ざるはなし勿論コレラにも眞症と類似との別ありて眞症は稍々コレラと視做す可きが如くなるも類似に至ては例の霍亂も亦一樣に算入せられて扨こそコレラ患者に驚く可き大數を示すものには非ざる歟と我輩の窃に疑を懐く所なり蓋し豫防注意の爲めに其紛はしきものは先づ兎も角も之を本病と視做して若しもの傳染を避けんとするは流行の塲合に免れ難き勢のみか法律の能く行屆くと共に多く罪人を出すの例に均しく天下を擧げてコレラを怖れ天下を擧げて豫防に汲々たるに際しては衛生掛の役目こそ倶に瞻て望を屬する所なれば掛官の人情として一人も洩さず患者を調べ以て其盡力の周到なるを誇示せんとする又その反對に流行の甚だしからざる年に當ては職務の手前更に一層精細の吟味をなすに至るは是亦自然の所たらざるを得ず凡そ此邊の事情より推究するときは前記患者の統計も頗る疑を容る可きものにして我輩は敢てコレラの流行を微々たるものとは思はざれども左ればとて亦敢て世人の過大視するに傚ふて容易に雷同すること能はざるなり且又同病は十年以降二十四年に至るまで年々多少の差はあれども曾て滅絶せざるにより或は誤て之を日本の風土病と認むる者さへある樣なれども十年と云ひ十二年と云ひ十九年と云ひ二十三年と云ひ其最も猖獗を逞しふしたる事は何れも病源の舶來たること明白にして其他原因不明に且つ患者も亦割合に少なかりし年は前年の餘毒の再發たるに過ぎずして我國固有の病にあらざるは勿論近今とも眞正のコレラは決して特發することなし即ち病源既に我に在らざる上に其流行の程度とても霍亂の類を合併したる總數に外なければ日本を認めてゴレラ地方と云ふは大早計たるを免れざれども然れども一旦これを官報に記載して公告するときは何人もコレラ地方に相違なきことゝ信せざるを得ず我國内の同胞間に限るとせば斯る評判も亦忍ぶに足ることなれども外國人に於ては則ち然らず遠方より之を傳聞して危懼を抱くの情は近く之を目撃するよりも更に數倍の甚だしきものありて貿易も交通も成るべく控目にせんとするは常情の免れ難き所なり現に昨年西班牙のコレラの如き我國人は之に對して如何なる感をなすや今や日本は務めて外人の交通を繁くし貿易の進捗を祈るの秋に當りコレラ云云の如き而も事實に適應せざる評判の爲めに意外の邊に國利を傷くることもありては遺憾至極の次第と云ふ可し隣國の支那は元來百事緩慢粗漏を習とすれども今に至るまでコレラの内地に流行したりと云ふを聞かざるは盖し貿易の利害等に顧慮するものには非ざる歟何んぞ一たびも流行せざることある可んや左れば我國にても内部の豫防に注意すべきは申す迄もなけれども必要外に評判を高くして徒にコレラ地方と認定せらるるが如き決して得策とは云ふ可らず昨年同病の殆んど絶無なりしこそ幸なれ大に多年の冤を雪ぎて豫て好評を得たる我が風土の美を擁護せざる可らざるものなり