「先づ行ふ可きものあり」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「先づ行ふ可きものあり」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

先づ行ふ可きものあり

海軍の難局も其人を得て司法の後任も既に定まり政府の更迭こゝに一段落を告げたれば是れよりは約束の通り部内の改革に着手することならん其改革の難易は兎も角もとして假令ひ當局者は大に奮發して充分に約束を履行したる積りにても其結果遂に民黨の氣に入らざるは我輩の保證する所なり如何となれば民黨の口に唱ふる所と心に思ふ所とは全く別にして本來の目的は改革に非ず年來感情を害せられたる其不平の腹癒を爲さんとするものにして其趣は癖の惡しき酒客が酒樓に遊んで其取扱に不快を感じ勘定の拂に苦情を述べ立てゝ樓主を苦しむるものゝ如し其苦情は錢の多少にあらず實は待遇の面白からぬを憤ふるものにして假令ひ望み通りの勘定書を呈するも到底客の情を慰むること能はざると同樣なれはなり左れば部内の改革も素より必要なれども今の民論を和らげんとするには何は兎もあれ其不平を感ぜしめたる根源を去ること肝要にして例へば法律規則を簡にして繁文の弊を除くなり官吏登用の法を改めて偏頗不公平の處置を止むるなり其事は一にして足らざれども我輩は先づ取り敢へず當局者の一身に關係して決心次第明日にても行ひ易き其事抦より始めんことを希望する者なり即ち毎度述べたる如く其人々が身邊の虚威虚飾を去り大膽磊落、廣く人に接するの一事にして一心こゝに決すれば位記の高きは不便にして華族の名稱も不似合なる可し華麗なる車馬邸宅の如きも最も無用の物にこそあれば一身に伴ふ所の外物は一切止めにして身輕に打扮つの覺悟肝要なり其決心決して難からず只、氣を轉ずるの一事に在るのみ喩へば人の旅行に於けるが如し平生家に在りては謹愼寡黙の人にても一朝旅に出づれば殆んど別人の如く飲まぬ酒も自から口に入り冗談放語して戯るゝことさへなきに非ず即ち其飲酒冗談は本來なき性質を造りたるに非ず只その境遇に氣を轉じて爛漫たる天眞を發露したるまでの事なれば苟も氣を轉ずるの覺悟さへあるときは家に在りても〓〓旅中に於けるが如く飲酒冗談して〓〓に振舞ふことも決して難きに非ざるを知る可し〓〓の當局者も今こそは高位高官の貴人にして其擧動も兎角乙甲なれども本來の身分を尋ぬれば素寒貧の一書生に過ぎず即ち磊落簡易の擧動こそ其本色にして今の虚威虚飾は寧ろ不得意の所作を演ずることなれば之を止むるは恰も本來の本色に立返るものにして惡客に酒を強ひ無口の人に冗談を望むの類に非ず我輩は其人人が速に氣を轉じて擧動の一變を希望するものなり抑も事の難易を云へば部内の改革は至難中の至難にして假令ひ其至難を犯して之を行ふも其結果を以て民黨の滿足を買はんとするは更に又困難なる其反對に一身の虚威虚飾を去るの一事は同日の談に非ずして其決心次第明日にも之を行ふこと難からず而して實際の結果如何と云へば之が爲めに世間に羨望の情を減じ民論を和らぐるに足るの外、當局の一身には何も損する所なかる可し一方は難くして效の有無も覺束なく一方は易くして無害は必ず請合ひなりと云ふ孰れを先にし孰れを後にす可きかは智者を待たずして知る可し今日と爲りては改革も素より止む可らずと雖も易きものより先にするこそ適當の順序なる可しと信ずるなり