「徳川史編纂の必要」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「徳川史編纂の必要」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

徳川史編纂の必要

此頃の新聞紙上に見えたる如く文部大臣は從來帝國大學に委囑しありたる歴史編纂の事業を一時中止して更に體裁を一變し適任の人を得て之に托する筈なりと云へり抑も修史の事たる大事業にして人を要し金を要し且つ時を要するものなれば一私人に於て企つるは容易ならず國家の業として政府にて爲すこそ適當なりとして扨て素より大事業の事なれば時を期して功を急ぐ可らざるは勿論なれども今日の實際に於て事業の創設以來二十餘念の時を經過し且つ金を費したることも少なからずして毫も見る可きものなしとありては餘りに緩慢の次第なれば更に適任の人を得て之に托するも止むを得ざるの處分なる可し其處分は我輩に於ても異論なき所なり而して事業の目的は如何なる歴史を修めんとする者なりやと云ふに其體裁は兎も角もとして日本立國三千年間の事實を敍して完全なる一大歴史を編纂するの目的にてもあらんか是れ又異論なき所なれども我輩は此際當局者に向て一の希望ありと云ふは外ならず取り敢へず徳川時代の歴史編纂に着手すること是れなり聊か其理由を述べんに從來日本には完全の歴史に乏しと雖も尚ほ事實の徴す可きものなきに非ず更に精密に調査して完全なるものを編纂するは素より必要なれども其事たる是非とも今日に於てせざれば出來がたき事にも非ざれば材料の蒐集、事實の調査に怠らずして姑く大成を他日に期するも可なれども徳川史の編纂に至りては全く事情を異にして其事の目下に必要なるのみならず今日の好機會は再びす可らざるの恐れなきに非ず抑も今の日本社會の文明は徳川の治世三百年の間に培養して開國維新の春に花を開きたるものなりとは學者の夙に唱ふる所にして政治なり文學なり美術なり工藝なり凡そ今の文明社會の要素は其治世の間に發達して今日の美を成したるものこそ多ければ苟も日本社會の事を觀察せんとするには先づ徳川時代の制度慣習文物の有樣に參考す可きは勿論にして今の政治家が政府に立て法を制し政を行ふにも前代の事實を調査せざるときは實際に當りて肯緊を誤ることも多かる可し例へば徳川の中央政府が封建割據の群雄を駕御して寸兵を動かさしめず固く政權を握りて三百年間の太平を維持したる其治術政略の巧妙なるは今の文明流の政治家と雖も迚も企て及ぶ可らざるものあるは申す迄もなく當時中央及び各藩の政府に於ける地方制度の如きは一種の自治制にして其仕組は殆んど完全の極に達したりと云ふも不可なきが如し然るに維新以來徳川時代の事とあれば其美醜善惡に論なく專制壓抑なり因循姑息なりとて一概に之を擯斥抹殺して顧みず只管西洋の風に摸せんとして其眞を寫すを得ず俗に云ふ■(むしへん+「丙」)蜂取らずの失策も少なからず彼の自治制の如きは即ち其一例にして今日に至りては制法の當局者に於ても竊に自家の不明を悔ゆることならん然れども政治の事は姑く擱き今代文明の要素は徳川の治世に養成したる者多しとの事實、果して相違なき以上は其事實を調査して原因結果の次第を明にするは目下の必要にして修史家の最も力を用ふる所なる可し而して殊に注意を要するは今や徳川の時代を距ること未だ遠からずして學者故老の尚ほ存するもの少なからざるのみならず或は當時の政局に參し或は商賣に從事して身躬から局に當りたる人もなきに非ざれば親しく事實を尋ぬるの便利もあれども若しも數年を經るときは其人人も世を謝して折角の便利を失ふに至る可し史上の記事に往往實を誤りて事の眞を失ふこと多きは從來の通弊にして歴史家の遺憾とする所なれば今日の機會に其事を企てざるときは他日の悔を遺すこと必ず多かる可し支那にては革命易姓の事ある毎に必ず前朝の歴史を修むるの例にして彼の唐書晉書五代史の類の如き皆然らざるはなし明治政府は修史の局を開て二十年來その業に從事しながら毫も成效の見る可きものなきのみならず今代の事實に關係多き徳川史の編纂にさへ着手せざりしとは從來の欠典にこそあれば今回修史の體裁を一變して適當の當局者を得ると同時に取り敢へず徳川時代の歴史編纂の事に着手あらんこと我輩の希望する所なり